人びとは助け合って生きている
日本人のノーベル賞受賞者が出た時も、ラグビーなどのチームスポーツの日本代表が活躍した時も、それで喜ぶ多くの日本人に対して
「凄いのはその研究者個人であってお前じゃないぞ」
「凄いのはラグビー選手であってお前じゃないぞ」
…みたいな、使い古されまくってる嫌味を言う人がいるんですが、私はこういうこと言う奴が嫌いです。嫌いというか、アホか!って感じがする。
そんなことはみんなわかってるけど、それでも喜ぼうとしてるとこに水さすなよ、て感じがする。
こういうのは「忖度しない空気読まない俺カッケー」という感じではなくて、むしろこの世の中が人びと同士の無数の協力関係によって支えられていることが理解できないアホの言い草という感じがします。
NASAの清掃員さんは、「人類を月に送る」手伝いをしている
何年か前に、フェイスブック創業者マーク・ザッカーバーグのハーバード大学でのスピーチが「すげえいいな」と思って、ブログに翻訳をあげたらムチャクチャ大量にアクセスされて一週間ぐらいツイッターの通知が鳴り止まなくなったことがあるんですが。→コチラ
そのスピーチでザッカーバーグが好きな話として、NASAの清掃員さんが、「何をしてるのか?」とケネディ大統領に聞かれた時に、
「大統領、私は人類を月に送る手伝いをしているのです」
と答えたという話が出てきます。ザッカーバーグの演説の良かったところは、
「自分個人が人生の意味感を感じられるようにするだけじゃなく、”すべての人がそれを感じられるようにするにはどうしたらいいか”ということを、ハーバードに来ているような学生は”自分の責任として”考えるべきなんだ」
という発想の部分なんですね。
昔は地域コミュニティや職場や家族が強固だったので人生の目的感というのは自然に得られたが、今はそういうものが崩壊しつつあるので、人びとに「自分の人生が価値あるものだと思ってもらえるかどうか」は凄く重要な課題になっている。
スポットライトの浴びやすい職業や才能を持った個人というのは確かにいます。が、残念ながら誰しもがそういう「トクベツな才能」があるわけではない。
その時に、「活躍している人」との共通点を喜んだり、祝ったりしたいという人びとの気持ちがあったとして、それを上から目線でバカにするとか、ちょっと人間として凄いゲスい発想である気がしませんか?
そりゃあアンタは、研究にしろスポーツにしろそんな「自分とは違う他人」の成果とは関係なく自分だけの成果だけを自分の人生のヨスガとして生きていっているのかもしれないし、その態度自体はむしろエライと思う部分もある。
けども、「自分がそう生きること」を選択することと、「分かち合う喜びを人生の糧にすること」を選択するのも、単にそれぞれの生き方の違いであって、その間に「上下」を設定してなんかバカにするようなことを言うのは、かなり人道に反する行いではないでしょうか?
流行の言葉で言えば「How dare you!!!(よくもそんな恥知らずなことができるな!!!)」って感じがしますよ。
ラグビー代表の「われわれ感」から「ダイバーシティ」感覚を広めることだってできるはず
特に今回のラグビー代表は、色んな人種と色んな国籍の選手が集まり、それぞれの良さを活かし、同じユニフォームを着て同じ君が代を歌って活躍していたわけで、ある種の「ダイバシティ」観念を多くの日本人に持ってもらうための大事なステップになりえるはずじゃないですか。
日本人1億2千万人にはいろんな立場で生まれ育った人がいて、外国人に慣れてない環境で育った人もいるわけです。当然、同じ日本人でも黄色人種の見かけでない人に対して慣れてない人もいる。外国人が同じ職場で働いていることに慣れていない人もいる。
もちろん、たまに炎上する非常に差別的なことを言ったりするヤツを抑止していくことも大事です。
が、ただ「お前たちは差別しているぞ!」と糾弾していくだけで彼らの態度を変えることが「できる」という判断自体が、非常に傲慢なことであるように私には感じられます。
今回のラグビー日本代表に感動することが、日本に住む「黄色人種以外の見た目の仲間」に対しての態度を改めるキッカケになる人もいるでしょう。
日本が本当に「ダイバシティ」的なものを、恵まれた都会の意識高い系の内側の狭いサークル内の茶話を超えて、老若男女、都会に住む者も地方に住む者も、富める者も貧しき者も…というレベルで浸透させていくためには、「糾弾」だけでなく、「われわれ感」をいかに醸成していくかについて私たちは真剣に考えなくてはならないはずです。
現代社会において国際的な環境に触れる機会が少なく育ってきた人はある種の「弱者的環境」にあると言っていいはずですから、彼らまで「浸透」させるためには上から目線の断罪でなくどうやったら「われわれ感」をダイバシティを超えて持ってもらえるかの演出を真剣に考えることが必要なはずです。
そういう状況を考えると、「自分はスポーツチームやスター研究者に共感しなくても自分だけの人生の価値を見いだせる」からといって、そういう「われわれ感」を共有して社会を運営していこうとしている人たちに対して上から目線でバカにしたようなことを言うのは、やっぱ人間としてちょっとどうかと私は思います。自分が恵まれた存在であることをわかっていない非常にさもしい態度なんじゃないでしょうか。
21世紀の意識高い系はセールスマンメンタリティを持つ必要がある
これに限らず、世界中の「意識高いリベラルな理想」をほんとうに人びとに共有していきたいと願っているなら、私たちは真剣に「セールスマンメンタリティ」を持つべきです。
なぜそれが必要かというと、今の時代は欧米諸国だけがGDPのほとんどを独占しているような時代ではなく、経済発展著しい13億人の中国人が「民主主義とかもう時代遅れの制度」だと思っており、それに賛同する新興国のフォロワーが次々と出てきているような時代なわけです。
そんな中で、昔のように欧米諸国の上澄みグループが考えたことを「これが最先端でお前たちは遅れてる」という態度で押し出していったら強烈な反発があるとか、火を見るより明らかじゃないですか。
たとえるなら、20世紀は、
こんな感じで欧米諸国の「輝ける光」が人類が暮らしている「部屋」中をサンサンと照らしていたので、「欧米的理想のセールスマン」は、まるで一昔前の百科事典の訪問販売員のように、ただ上から目線で「コレ取り入れてないなんて遅れてますよ」と言うだけで良かったわけです。
しかし今は、欧米諸国が占めているGDPの比率は年々下がってきており、中国人13億人が、そしていずれインド人10億人が、そして東南アジアやアフリカ諸国のさらに多くの人びとが「自分たちの繁栄」を手に入れつつあるわけです。
そしたら、欧米諸国の「ブランド力」が照らせる範囲がどんどん縮小して、
こんな感じになってきてるんですよ。上と下の絵の違いを見比べたら、百科事典の訪問販売員みたいな態度で「欧米的理想」を売り込める時代じゃなくなってきていることに私たちは気付けるはずです。
はっきり言って、今の時代に欧米的理想に敵対心を持つ育ち方をしてる・・・という時点で、社会的経済的に「弱者」的存在である可能性は非常に高いわけです。
彼らがどうすれば自分の人生に誇りを取り戻し、安定した人心を持って社会運営に参加していくことができるか?そこにちゃんと向き合わない限り、中国がもっと大きな存在感を持つようになって、「民主主義とか時代遅れな制度まだやってんの?俺らそんなのナシでも結構うまくやってるぜ」とか言われたら言い返せなくなりますよ。
民主主義をあきらめたくないなら、単に欧米的理想の棍棒を持って「まつろわぬ民」を殴りまくるだけじゃあ限界が来ます。
人類社会における欧米諸国の「存在感シェア」が減り続ける中でも「欧米的理想」を諦めずにいるためには、単にゼロ対100で誰かを糾弾しまくるナルシシズムに酔うのではなく、そもそも「違う正義」を信奉している人との間の「対話」を立ち上げ、辛抱強くボトムアップに、「ひとびとが幸せに暮らせる社会」を作ることをやっていかねばなりません。
明日から、「凄いのはラグビー選手であってお前じゃねーよ!」的なことを言うアホには、いかに社会がひとびとの助け合いで成り立っているのか、自分自身の人生の価値を留保無く見いだせているような「恵まれた」人は、それを見いだせずにいる人たちにどうやってそれを持ってもらえるか考える責任があるのではないか・・・そういう「今の時代どんどん忘れ去られていってしまっていること」をコンコンと説教して思い出させてやりましょう。
民主主義を、諦めないためにね。
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そういう観点から、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」という直球なタイトルで、私の5年ぶりの新刊が今度でます。
以下のリンク先↓の無料部分で詳しく内容の紹介をしていますので、この記事に共感いただいた方はぜひお読みください。
また、同じ「メタ正義」的な視点から、紛糾続ける日韓関係や香港問題などの「東アジア」の平和について全く新しい解決策を見出す記事については、以下のリンク↓からどうぞ。(これも非常に好評です。日本語できる韓国人や中国人へのメッセージもあります)
この視点にみんなが立つまでは決して解決しないで紛糾し続ける・・・東アジア問題に関する「メタ正義」的解決について
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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