幼い頃、私は友人からは「天才」と、大人たちからは「神童」と呼ばれていた。期待してくれた人たちには申し訳ないが、実際にはそんなことはなかったのだけど。失礼な言い方だが、彼ら彼女たちの語彙力からするとそうなる。「天才」と呼ばれた人は実は「秀才」だったりするし、たいていは「凡才」だ。
別にマウンティングしているわけでも自慢しているわけでもない。このエントリーを読んでいる人の中にも、幼い頃、若い頃、その知性や運動神経が過剰に評価された経験がそれなりにあることだろう。
凡才と天才ということについて、10月に入ってから考えていた。私は長いトンネルの中を歩いている。走ってはいない。ここ数年、まともに働いていない。勉強も足りない。育児と家事だけはどうやらしている。料理はうまくなった。ただ、自分を磨くということが足りない。労働時間も、努力も同世代の誰よりも足りないだろう。
約10年前、母にこんなことを言われた。「お前には才能がある。ただ、勉強が足りない」と。こんなことも言われた。ちょうど母が監訳を手掛けた本がリリースされたときのことだ。同じ時期に私も肝いりの本を出した。冷徹に彼女はこう言った。「お前の本は、どうせ1ヶ月で書店から消える。私たちの本はずっと残る」と。
ずっと才能の無駄遣いをして僕は生きている。いつ真面目に働くのか、勉強するのかという周囲の期待を裏切り続けて、気づけば45歳になってしまった。
ちょうど10日くらい前、一緒にバンドをやっていたリクルート時代の先輩にこう言われた。「お前は気ばかりを使って。もっとやりたいことをやってみれば?」「本当は小説を書きたいのでしょう?キミがすべてをさらけ出した小説を僕は待っている」と。
彼にはやはり10年くらい前に「お前、本気出せば、つんくなんて目じゃないくらいの、仕掛け人になれるよ」と。残酷なことに、10年前はクルマ移動の日で、そして10日前は酒をやめた後だったので、シラフだった。その分、言葉の重みを存分に味わうことができたのだけど。
そんな中、先週末は朝日新聞×『左利きのエレン』×JINSの、新聞広告の日の企画にやられた
この企画自体、実に秀逸で。そして、そういえば若い頃は広告代理店に行って、CMを創りたいと思っていたことに気づいた。何というか、打ちのめされたような感じがした。
恥ずかしながら、『左利きのエレン』の存在すら知らず。cakesで人気を呼び、ジャンプ系の雑誌でリメイク版が連載されたそうで。今度はドラマ化。関連する展示会も開催されるそうで。
シンデレラストーリーではないか。
そう、私はcakesとかnoteとか、さらにはnewspicksとか、若い人、とくに意識高い系やワナビーが飛びつきそうなプラットフォームからは激しく距離をおいており。
リメイク版をKindleで全巻購入し一気読み。これまたやられた。胸にズキズキとくるものがあった。様々な若い才能がこの作品には登場する。自らの才能の限界に苦しみながらも何者かになることを夢見る者、圧倒的な芸術的才能に恵まれながらも天才ゆえの苦悩と孤独を抱える者。バランスの悪い人だらけだ。幸せそうな人もあまり出て来ない。でも、なぜか魅力的にうつるのはなぜだろう?
少なくとも私よりは才能があり。バランスなど気を使わず、さらには圧倒的に働いている時間が長いということはたしかなのだけど。
ちょうど4年前の今頃、『バクマン。』の映画版を見て。若い才能が競争する世界に興奮し。もっと働かなくちゃと思ったのだった。
今、我が娘という幼い才能とは真剣に向き合っている。娘は私たちの数倍かわいらしく、観察力、好奇心の塊のようで。さらに、記憶力が抜群にいい。表現力もいい感じになってきた。まだ努力は足りないけれど。
幼い才能もそうだけど、自分の才能を諦めず、また頑張ろうか。そんなことを考えた45歳の朝。
さ、チャレンジしますかね。
ここまで読んでくれて感謝。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年10月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。