と、まるでnoteに、自分の身内しか読まない、自分語り仕事告知エントリーを書くクリエイター気取りの意識高い系20代みたいな書き出しになってしまったが。本日、出演する、はずだ。予定だ。
いったん月初に出る予定が流れ。先週の18日(金)の17時01分に担当のディレクターからメールで連絡が来て即レスして以来、音信不通なので。少なくとも、私は本日、出演するために、予定をあけているし、保育園の送迎や、夕食(いつも私がつくる)や、他の仕事のやりくりをしている。
「そんな番組出るんじゃねえ」「え、あれ出るの?」「依頼が雑すぎたので断った」など、周りの物書きクラスタからは言われたりするけれど。でも、なんだかんだ言って、この番組が好きだし、頼まれごとは試されごとなので、出演するつもりでいる。
何より「いつものこと」なので。いかにも裏側の話を暴露しているわけではない。怒ってもいない。このゆるさがアベプラなのだ。
そして、これこそ、「ネット放送」と「地上波」の大きな違いであり、壁であり、モヤモヤというか、ジレンマを象徴しているのではないか。いまさらネット対リアルとか、ネット対旧来のメディアとか言うつもりはないのだが。とはいえ、視聴者も関係者もどこかで「ネット放送は、地上波の下」と思っているのではないか。
そういえば、BLOGOSが10周年を迎えた。私のブログもたまに転載されたりしている。2015年にはベストブロガー賞で銀賞を頂いた。金賞:小林よしのり 銅賞:三浦瑠麗 だったので、新世代の美形で左系な知識人として、してやったりだったのだが。
そのBLOGOSが超絶良特集を組んでいる。「ネットメディアの現在地」という企画だ。特にやまもといちろうさんと、西田亮介さんの記事が面白かった。
個人が発信する開かれたウェブが、社会の一部になるまでのメディア史(山本一郎)
ネットメディアは社会的責任を果たせるか 西田亮介氏に聞く、政治とメディアの現在
特に、西田さんは、まさにAbema TVに言及している。長い引用だが、同記事より。
AbemaTVのとても興味深いところは地上波的な文脈とネットのノリとがうまく融合していることだと思います。日本人はやはり小さい頃から地上波のテレビ番組とその文法、タレントに馴染みがあるので、テレビ朝日的手法とネット的手法の合流が企図されているのでその慣れ親しみがうまく活用されている印象です。人材的にもテレビ朝日の人材がAbemaTVを経験して、また地上波に戻るなど、うまく循環している印象があります。制作サイドもそうですし、『報道ステーション』の徳永さんや小松さん、フリーになりましたが、小川さんなども、地上波とネットの両方がわかるアナウンサーが増えていますよね。両方のよいところをうまく総合できるポテンシャルを秘めています。一社提供でありながら多くのチャンネルを展開し、将来的には他局制作番組も提供できるプラットフォームになる可能性や、海外配信も始まっていますから、日本の正規コンテンツの海外展開の窓口としての可能性も持っています。
一方、コンテンツのクオリティ面ではまだ試行錯誤の段階で、まだ安定していないところはあります。地上波よりも過激になりがちです。わかりやすくいうと、深夜番組のコードで制作された番組を、ゴールデンタイムに流しているような状態です。仮にAbemaTVがこれからもっと多くの人に見られるようになっていったとき、公益性や公共性の観点から、このままで大丈夫なのか、という議論は出てくるでしょう。
極めて的確で。後半ではAbemaTVの課題を捉えていると思う。
視聴者視点かつ、出演者視点で言うと、AbemaTV、そのなかでも「AbemaPrime」は「惜しい」存在だと言える。西田さんが言うとおり、「地上波的な文脈とネットのノリとがうまく融合していること」。ここが論点の一つで。「融合している」というよりは「融合をめざしている」ともいえ。しかし、これは中途半端ということになりかねない。実際、中途半端だ。
私の根本的な疑問は「これだけの豪華出演者を投入しておきながら、いまだにポジションが中途半端なのはなぜだろう?」というものだ。要するに、テレビ局の資源を使い、明らかに以前のニコ生や、フジテレビのネット放送よりはお金をかけてそうなのに、大ブレークしないのか、と。
出演者視点で言うならば、申し訳ないが、出演者への依頼の仕方、プロデュースの仕方が下手くそだということにつきる。今回の事例もそうだろう。いざ、ゲストとして出演しても(私の論者としての格やスキルにもよる部分が大きいとは思うが)、人が多すぎて話が深まらず、拡散する、せっかくの貴重な発言、視点がスルーされるのが気になった。
また、パーソナリティーや出演者を育てるという視点も足りない。もっというと、番組と一緒に成長し、ブレークしていく出演者もまた少なかったのではないか。
ラジオではあるが、TBSラジオ「荻上チキ Session-22」などは、すでにブレークしていた荻上チキさんを、メインパーソナリティーにすえた。ラジオに関する雑誌のインタビューなどで同番組が取り上げられ(ケトルとBRUTUSだったと記憶している)、そこでも当時のプロデューサー長谷川裕さんは「チキくんの成長にも注目してください」と言っていた。パーソナリティーにしろ、出演者にしろ、番組と一緒に育つ(育てる)、ブレークするという視点が足りなかったのではないか。
根本的な問題として、特に出演するテレビ朝日のアナウンサーたちが、Abemaを「下」に見ていないかと感じたことだ。特に小川アナ時代には顕著だった。いや、あたらしい芸風を模索していたと思うし、邪推ではあるが、「NEWS23」への移籍話は時期的に重なっていたのかもしれないが。
「上」「下」という議論は不適切なはずであり、いまのメディア環境には合わない議論かとは思う。言ってみれば、私たち世代が少年時代に「長州力とマイク・タイソンはどっちが強いのか?」と意味のない妄想をしたようなものだ。しかし、この意識こそが日本のネット放送の、それなりにブレークしつつ、いまだにモヤモヤしている現状を象徴していないか。
本日の放送では、この3年間を振り返るらしい。言いたいことはいっぱいあるが、一番言いたいことがスルーされたらあれなので、ブログに書いておくことにする。
…レギュラーになりたいっす。メインパーソナリティーもやりたいっす。
ところで、本日、私の入り時間、どうなってます?
ちゃんと、全身をCOMME des GARCONSのおニューな服で固めたんだぞ。
大学で講義して、スウェーデンのラジオからのインタビューを受けてから行くんだぞ。
いかにもAbemaっぽい展開で、全然怒っていないので、連絡、夜露死苦。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年10月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。