新聞論調も空疎で空回り
菅原経産相が地元事務所による贈答品の提供、秘書の香典持参などで、公職選挙法違反の疑惑を問われ、辞任しました。メロン、カニ、香典などの提供で閣僚ポストを棒に振るなんて、ばかばかしい。この程度の人物がなぜ閣僚になれたのか、有権者はあきれています。
安倍首相は「任命責任は私にあり、国民に深くお詫びする」と、語りました。毎度の常套文句です。野党は閣僚の首を取るのが最重要の仕事らしく、「首相の任命責任は重たい」(立憲民主党の福山幹事長)とし、首相を追及する構えです。災害、防災、異常気象の関係とか、本質的な問題は他にいくらでもあるのに、双方とも言葉の遊びに明け暮れています。
最も本質的な問題は、「任命責任を問う」はあいまい、かつ実体のない概念ということです。「責任」とは「立場上、当然、負わなければならない任務、義務」です。「任命責任」とは、「そのポストふさわしい人物を任命する責任」です。では何をもって「任命責任を問う」ことにするのか。
「任命責任」は定義できても、「任命責任を問う」となると、曖昧模糊としてきます。「任命責任」を果たせなかった場合、罰則があるわけではない。「国民にお詫びする」と、謝っていれば、やり過ごすことができます。首相もどんな責任を取るのか、言及しません。取るつもりもありません。
「任命責任を問う」とは何なのか
ですから野党は「任命責任と問う」とは何かを、明確にしてかからないと、首相を責めようがない。明確にできないから、首相は閣僚の首が飛ぶたびに、「任命責任は私にある」と釈明を続ければ、野党もメディアも世論も、追及をあきらめてきたのです。
新聞も「任命責任を厳しく問う」と、主張していれば、言論機関としての役目を果たせているかのような自己満足に陥っています。朝日新聞は社説で「政権のおごりの帰結だ」として、「問題をうやむやにすることは許されない」「国会など公の場で徹底的に菅原氏を説明させよ」と、主張します。「任命責任を問う」はずの論点が、「菅原氏の疑惑追及を」にすり替わっています。
毎日新聞の社説は「虚しく響く任命責任」という見出しで、「第二次安倍政権以降、閣僚の辞任は9人目。首相はそのたびに任命責任は私にあると、謝罪を繰り返してきた」と、強調しています。新聞が考える「任命責任を問う」とは何なか。それに触れない社説こそ、虚しく響くのです。
政治関連の責任といえば、刑事責任(刑法)、民事責任(民法)、公選法や政治資金規正法違反、不透明な政策・意思決定に対する説明責任、秘書の行動に対する監督責任などは、定義することでき、多くは罰則もあります。結果が悪ければ、退陣する「結果責任」というのもあります。
民間では厳格な責任の取り方
民間企業では、責任を問われたらただではすまない。巨額の赤字決算、経営目標の達成失敗などで、「経営責任を問う」といわれたら、社長は辞任して責任を取る。役員らの不祥事があれば、「任命責任」を果たすために、経営トップも報酬削減を自らに課すことがありましょう。
官僚の責任の取り方も、曖昧でずるい。政官財の中で、政が最も責任を取りません。もっとも「メロンや香典」問題で、首相が辞任することもばかげている。ではどうしたらいいのか。
首相に「任命責任は自分にある」と、意味のないことを言わせれば、「一本とった」と思い込む悪習から、野党は抜け出すことです。メディアも「任命責任は重い」などという空疎な主張はしないことです。「メロンや香典」疑惑を知りながら、閣僚に任命したと批判するなら、まずその事実の発掘をやってみることです。
編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2019年10月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。