桂太郎という知られざる大宰相を再評価する

八幡 和郎

安倍晋三首相の通算在職日数が2019年11月20日で2887日となり、日露戦争や日韓併合の立役者である桂太郎を抜き憲政史上最長となった。今年中には8年を超え、総裁任期の最後まで努めると、10年に近づくことになる。この2人に続くのは、佐藤栄作、伊藤博文であって、いずれも長州人であり、しかも、いずれも吉田松陰にゆかりの人物である。

桂太郎(国立国会図書館HPより)

ただ、このうち、桂太郎については、余り知られていないので、今回は、桂とそのライバルだった西園寺公望の時代についての『歴代総理の通信簿』(PHP文庫)の拙文を少し抜粋して紹介したい。

第6代 桂太郎 (かつら・たろう)

弘化4(1847)年11月28日生~大正2(1913)年10月10日没(65歳)。山口県萩市出身。ドイツ留学。

在職期間
第一次 明治34(1901)年6月2日(53歳)~39(1906)年1月7日(1681日)
第二次 明治41(1908)年7月14日(60歳)~44(1911)年8月30日(1143日)
第三次 大正元(1912)年12月21日(65歳)~2(1913)年2月20日(62日)

*長州閥のサラブレッドで山県の子分と見られたが、柔軟な発想とニコポン懐柔術の見事さで大きな業績をあげる。第一次内閣では日英同盟を締結し、日露戦争に勝利する。

吉田松陰のスポンサーの甥

東京大学医学部には、有名人の脳がいくつも保存されている。夏目漱石が1425グラム、内村鑑三が1470グラムといった具合だが、桂太郎は1600グラムと最大であって、カントの脳と同じくらいの重さである。脳の重さと働きにどこまで相関関係があるかは不明だが、かなり優秀な頭脳の持ち主だったらしい。

長州藩士時代の桂(国立国会図書館HPより)

桂太郎は、長州閥のなかでもサラブレッドであった。その先祖は戦国時代に広島県廿日市にあった桜尾城主・桂元澄で、一二五石馬廻役という上級武士だった。母方の叔父である中谷正亮は松下村塾のスポンサーだった。

維新後はフランス語を学んで留学に旅立ったが、普仏戦争に遭遇し、ドイツで学ぶことになった。在独中には木戸孝允と旧交を温め、帰国後は木戸の推薦で陸軍大尉となり山県有朋の懐刀として活躍する。

日清戦争時は名古屋の師団長で、その後、台湾総督を経て陸軍大臣となった。

日露戦争の勝利をもたらす

「ニコポン」というのは、ニコニコ笑って背中をポンと叩くなれなれしい仕草で相手の心をつかむことをいう。歴史上の人物だと豊臣秀吉が典型だし、近年では田中角栄がこの術の天才だった。だが、その「ニコポン」という言葉を誕生させたのは、桂太郎である。「東京日日新聞」記者の小野賢一郎が命名したのだそうだ。

桂太郎は元勲でない最初の総理であり、閣僚にはそれまで次官などをつとめていた世代が多く起用された。小村寿太郎外相、清浦奎吾法相、児玉源太郎陸相などである。

この時代、明治35年(1902年)に日英同盟が成立、明治37年(1904年)には日露戦争が勃発したが戦局を有利に進める一方、米国のセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋を引き出し、明治38年(1905年)、ポーツマス条約を締結した。米国とは、桂−タフト協定によってフィリピンの米国領有と引き替えに朝鮮半島での日本の地位を承認させ、第二次日韓協約により韓国を保護国化した。

1906年、最初の首相就任時の西園寺(Wikipedia)

だが、ポーツマス条約の内容を不満とする世論は日比谷焼打ち事件などを起こしたので、桂は原敬との水面下での交渉を進め、政友会総裁・西園寺公望を首班とする内閣に譲った。

このころ、日露戦争を控えての軍備増強の財源をめぐっても、増租継続を求める政府と行政改革での捻出を主張する政友会との間で攻防が繰り広げられた。伊藤は両者の間に立って調停に奔走し、山県も協力したが、伊藤が元老でありながら政友会総裁も兼ねるという体制は徐々に無理が目立ち始めたし、伊藤独裁に反発する党員の離党も出てきた。

こうして伊藤は枢密院議長に転じ、西園寺が後継総裁になった。こののちも、政友会と政府の微妙な協力関係は続いたが、なんとか日露戦争終結まで破綻せず、原敬の根回しによって終戦処理への支持と引き替えに戦後の西園寺内閣への禅譲に持ち込まれたという経緯である。

この間の桂の外交、内政にわたる指揮は、元老たちの助力を得たとはいうものの、まことに見事なものと評価されるべきであろう。

第7代 西園寺公望 (さいおんじ・きんもち) 大勢に沿った方向でのみ良識を示せた調停者

嘉永2(1849)年10月23日生~昭和15(1940)年11月24日没(91歳)。京都市出身。フランス留学。
在職期間
第一次 明治39(1906)年1月7日(56歳)~41(1908)年7月14日(920日)
第二次 明治44(1911)年8月30日(61歳)~大正元(1912)年12月21日(480日)

岩倉具視の後継者としては貴種すぎた

西園寺家は、藤原北家のなかでも閑院系という流れに属する。藤原道長の叔父である公季の子孫で、三条、徳大寺などの各氏と同じ流れだ。鎌倉時代には公経が源頼朝の姪と結婚したことから、朝廷と幕府の窓口である関東申次の地位を手に入れ、権勢を誇った。

明治天皇より3歳だけ年長であったので、遊びの相手なども幼いころからつとめた。鳥羽伏見の戦いでは、少年ながら積極的に旧幕府軍と戦うことを主張し、山陰道や北陸道の北国鎮撫使などをつとめた。

パリ留学時代の西園寺(Wikipedia)

明治4年(1871年)からフランスに留学して法学者アコラスに師事し、第一次世界大戦時にフランス首相となったクレマンソーや社交界の文人たちと交流した。明治13年(1880年)に帰国したのち、中江兆民と「東洋自由新聞」を創刊して自由民権運動に参加したが、勅命で退職した。

フランス留学時代までの西園寺はやんちゃな性格だったらしく、パリ講和会議で再会したクレマンソーは、「かつての燃えるような情熱の持ち主は、皮肉屋の老人になっていた」と評した。

何事も無理をしないものぐさな性格になったのは、この「東洋自由新聞」をめぐる経緯での挫折が大きな原因らしい。岩倉具視は自分の後継者として西園寺に期待したこともあったようだ。

そののち、西園寺は伊藤博文の憲法調査に随行して渡欧した。オーストリアやドイツ駐在の公使をつとめ、貴族院副議長などを経て第二次伊藤博文内閣の文相となり、のちに外相を兼ねた。

明治36年(1903年)、伊藤が枢密院議長となると政友会総裁となり、原敬らと党勢の興隆に力を尽くした。また、京都帝国大学、明治大学、立命館大学の創立にかかわった。とくに立命館大学では西園寺を「学祖」としている。

原内相に支えられて政友会の基盤強化

桂園体制」というのは、明治34年(1901年)から大正2年(1913年)まで、つまり明治末期から大正の初めまで桂太郎と西園寺公望が交互に政権についたことをいう。

ライバルとして対峙した桂、西園寺(国立国会図書館HP)

厳しい対立関係が連想されるが、この2人は不思議な友情で結ばれ、おのおのの妾同伴で酒を酌み交わすような間柄であった。両者間で相互補完関係を意識しつつ、助け合い、ある種の出来レースで政権交代を繰り返したとみるべきであろう。

鉄道国有化、南満州鉄道会社(満鉄)の設立、二個師団増設などは、桂内閣の政策を引き継いだものだが、日本社会党の設立を認め、原内相は山県の牙城だった内務省の掌握につとめるなどした。

また、貴族院の有爵議員から閣僚を登用して山県派の官僚出身議員に対抗させた。文部省展覧会(文展)の開催や文士との交流など文化政策が採り入れられたのは、公家出身の西園寺ならではの政策だった。

外交では、日仏協約、日露協約などで多角化に努める一方、第三次日韓協約で朝鮮の内政権を獲得した。第二次協約にもとづき京城(ソウル)に伊藤博文を統監として送り込むなどしたのに対して、高宗はハーグの国際会議に密使を送って日本の不当を訴えようとした。しかし、すでに韓国を日本の勢力範囲として認め、外交使節の引き揚げまでしていた列強はこれを相手にせず、かえって、日本による監督を強めるきっかけになった。

倒閣の原因になったのは、政友会支持勢力に有利に鉄道国有化を進めようとして、それが井上馨や桂の不興を買ったことだ。ただし、総選挙が政友会の勝利に終わったことでもあり、ちょうど潮時とみて、西園寺が桂にいったん政権を返したというべき円満な交代だった。

第二次 桂太郎内閣(明治41年7月~44年8月) 衝撃的事件の危機感とビスマルク的政策

韓国統監を辞して枢密院議長に戻ったばかりの伊藤博文がハルピン駅で暗殺され、一気に日韓併合に進んだのが、この内閣のときである。

この内閣では、後藤新平も逓信大臣として加わった。政党との関係では、「一視同仁主義」の名目のもとに反政友会勢力との連携を図ったが成功せず、「情意投合」により政友会との協力に立ち戻った。

大逆事件などがあったが、危機感を持った桂は、恩賜財団済生会(さいせいかい)済生会設立、工場法など、ビスマルク的に社会問題への取り組みを開始したが、これは、まことに鋭敏に世界的な流れを取り込んだものであり、高く評価するに値するべきものだった。

そして、3年間の在任ののち、桂は西園寺に政権を返した。総選挙の時期が近づいていたので西園寺の顔を立てたのである。

第二次 西園寺公望内閣(明治44年8月~大正元年12月) 明治天皇の崩御

明治天皇の病状悪化は、隠すことなく刻々と国民に伝えられた。その崩御を国民は深く悲しみ大きな喪失感を持ったが、そこには昭和天皇のときのような暗さがないのが明治という時代の良さであろう。

明治天皇の大喪の礼(Wikipedia)

西園寺は行財政改革を進め、山県を背後に持つ陸軍が要求する朝鮮半島での二個師団増設を拒否した。これに対して、上原勇作陸相は辞表を出し、その混乱のなかで西園寺は政権を投げ出した。

このころ、桂はその勢力伸長や政党設立計画を警戒されて、大正天皇を輔佐(ほさ)輔佐する内大臣兼侍従長に祭り上げられていた。後継の首相には、朝鮮総督の寺内正毅、平田東助元内相、海軍の山本権兵衛などの名が出たが、山県は自らへの世論の厳しさを自覚して踏みきれず、結局は、西園寺も納得させられる桂に政権を戻さざるを得なかった。

この西園寺内閣の崩壊と山県の言いなりと誤って認識されていた桂の首相就任に抗議して、政党人は猛反発し、第一次護憲運動が起きた。内大臣を離任するために、桂は大正天皇の勅語をもらった。これを尾崎行雄は、「詔勅をもって弾丸にかえ」と非難したが、勅語を利用するようにすすめたのは政友会総裁でもある西園寺であり、悪いのは西園寺であって、桂としては不本意な非難だった。

第三次 桂太郎内閣(大正元年12月~2年2月) 第一次護憲運動で退陣

第二次桂内閣が倒れたあと、桂は独英露3国の歴訪に旅立った。ロシアとの新しい外交関係の模索や英国での二大政党政治の調査のためである。だが、モスクワで明治天皇危篤の報に接して帰国の途につき、大正天皇の内大臣として宮中に押し込められた。それをやっとの思いで脱出して第3次内閣を組閣したものの、第一次護憲運動にあって3カ月足らずで退陣のやむなきにいたった。

首相在任中から桂は山県らの抵抗を押しきって、大隈重信らと協力して、政友会に対抗する政党を組織しようとしていた。だが、民衆が国会を囲み暴動となったので、志半ばにして退陣のやむなきにいたり、さらに、8カ月後には胃ガンで死去した。

桂太郎は、山県系の軍人であり政友会の西園寺の敵対者とみなされたことから、反立憲政治のシンボルとみられることが多い。だが、ここまでみてきたように、吉田松陰に始まる長州のよき伝統の正統的な後継者であり、バランス感覚、知性、行動力、人間性などいずれからみても最高級の政治家であった。

伊藤博文、西園寺公望との比較において対外強硬論者、超然主義者という位置づけをされ悪くいわれるが、山県有朋との関係においていえば、陸軍や官僚機構を政党政治のなかで現実的な中庸路線へ導くたしかな構想を持っていたというべきだ。

もし、桂が長命であったら、ややタカ派的で官僚など実務家主導の桂の勢力と、ハト派的で党人派的な原敬の政友会という、二大政党として好ましい組み合わせが成立し、軍人が反政党的にならない形での憲政のルールが可能だったのではないかと思えてならない。

桂が日韓併合を実行したことは批判されるところだが、しからば、日本にとってどういう選択肢があったかはあまり説得的な論をみない。

また、日本政府の根回しのよろしきを得たからでもあるが、(欧米諸国の)国際世論もこの併合を支持し歓迎したのも韓国・朝鮮の人にとっては認めたくないだろうが、事実だ。

ただ、たしかなことは、伊藤、桂、それに明治天皇をほぼ同じ時期に失うようなことがなければ、日韓両国にとってその後の歴史は少しましなものになっていたということだ。

一方、辛亥革命とその後の状況については、日本は第一次世界大戦中の対華21カ条の要求まで良くも悪くもほとんど傍観者として振る舞った。これも、もし桂が存命ならば、もう少し戦略的な動きができたのにと惜しまれる。


八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授