田原氏は如何にして首相を辞めさせたのか?
田原氏が辞めさせた首相は海部俊樹、宮澤喜一(2007年没)、橋本龍太郎(2006年没)の3名であり、彼らが田原氏が司会・インタビュアーを務めるテレビ番組に参加し、氏とのやり取りの中で曖昧もしくは問題発言をし、それが切っ掛けとなって退陣に至ったと言う。(参照:WEB論座「消えた政治討論「サンプロ」「時事放談」[10]」)
いずれもテレビ朝日系列の番組であり、そのうち2つがサンデープロジェクト(1989~2010)である。
筆者は田原氏が現役の首相と番組の中で具体的にどんなやり取りをしたのかを映像で知りたいのだが、ネットを探しても出てこない。一応、テレビ朝日は過去の映像を保管しているようだが、その公開手続きもよくわからない。
もう既に公開されている情報なのだからネット上に一般公開してもなんら問題がないと思うのだが、検索を続けてもテレビ朝日は過去の映像、特に報道番組の公開は避けたいという印象しか残らない。
アゴラの読者も田原氏と「辞めさせられた首相」の具体的なやり取りを映像として思い浮かべられる方は極少数派ではないか。
我々国民は一民間人が「国民の代表者」が就任する首相を如何にして辞めさせたのかがわからないのである。
最近でもテレビの放送を巡って騒動が起きた。奇しくも同じテレビ朝日が起こしたものであり、自民党の世耕弘成参議院幹事長の発言を「誤解を招く表現」で取り上げたという(朝日新聞デジタル)。
こうした「歪曲」ともいえる編集をテレビは2010年代が終わろうとしている現在も行っているのである。テレビが全盛だった90年代にテレビ関係者が「誤解を招く表現」で映像の編集をしていなかったと誰が言えるだろうか。その有無を調べるためにもテレビが保管する過去の映像の一般公開が求められる。
今、桜の会を巡って「情報公開」の文脈で公文書の管理が話題になっているが民主主義社会に求められる真の意味での情報公開を追求するならば公文書だけを論じても意味がない。テレビが過去に放送した映像も適切に公開されなくてはならない。
そのためにもいわゆる「放送アーカイブ」の整備を進めていくことが重要なのだが、その気配はない。少し古い記事で恐縮だがテレビ業界は放送アーカイブの整備に否定的らしい(ダイヤモンドオンライン)。
これでは田原氏が首相を辞めさせた話も客観的検証が不可能になる。我々国民はマスコミからの一方的な情報を聞かされるだけであり、主権者の地位が形骸化されている。
今の若者はサンプロを知らない
ネット上ではテレビ・新聞から成るオールド(既存)・メディアの偏向報道への批判があふれている。ネット上の偏向報道批判にオールド・メディアが真剣に向き合っているとはいい難く、むしろネットを敵視しているような印象すらある。
筆者もオールド・メディアの偏向報道に反発しており、だからこそ本稿を書いている。
書いていてふと思ったのだが今の若者はサンデープロジェクト(以下、サンプロという。)をどれだけ知っているのだろうか。今は18歳から投票に参加できるが、サンプロは彼(女)らが小学生の時に終わっており、影響を受けたとは考えにくい。政治的に早熟な小学生もいるかもしれないが常識的に考えてそれは極小派だろう。
今、我々が「若者」と呼ぶ者の幼少期には既にネットがあり、彼(女)らの周囲には情報があふれていた。
一口にサンプロと言っても例えば90年代と2000年代後半のサンプロを同じものと評価する者はいないはずである。田原氏の話を見てもわかるように「首相を辞めさせる」ほど影響力をもった時期は90年代のサンプロであり「サンプロを知る」とは「90年代のサンプロを知る」といっても過言ではあるまい。そういう意味では今の若者は「サンプロを知らない」と言える。
もちろん「サンプロを知らない」は「オールド・メディアの全盛期を知らない」とも置き換えられる。
そしてこの「サンプロを知らない若者」は田原氏の「首相を辞めさせた」話を聞いてどう思うだろうか。肯定的評価する者はどれだけいるだろうか。
「サンプロを知らない若者」は遠慮しない
偏向報道批判している者でもオールド・メディアへの理解度で批判の姿勢は大きく異なると思われる。
筆者(1983年生まれ)は細かなことはわからなかったがやはり田原総一郎氏の一言で、朝日新聞の一面で「国が動いた」経験をしている。90年代、オールド・メディアの「力」は圧倒的だった。その「力」が多分に「角度をつける」報道で成立していたと思うと釈然としないものがある。だからこそ偏向報道に反発するし、それは一面オールド・メディアの「力」を認めている。「力」があるからこそ責務を果たすべきだという思考である。
しかし「サンプロを知らない若者」はこういう思考になるだろうか。
彼(女)らの中でオールド・メディアの「力」の評価は筆者よりも相当に低いはずである。「力」が乏しい相手には「責務」という言葉も出てこない。
どんな相手でも「力」があれば、その「力」を正の方向に導くことで事態を打開しようとする。人によっては自分の利益に利用するかもしれない。しかし相手に「力」がなかった場合、存在自体が負担、軽んじられ最終的には否定の対象となる。
今、ネット上ではオールド・メディアを巡って様々な改革案が議論されているが筆者の立場は放送アーカイブの整備の推進である。これはオールド・メディアの姿勢や方向性を正常化するものに過ぎず、存在自体を否定するものではない。倒産も失業もない。偏向報道に反発する筆者ですら人的物的資源の減少を伴うオールド・メディアの「力」自体を縮小させる改革は大局的に見れば国民の不利益になるので同意できない。筆者のこの立場はオールド・メディアの「力」を認めているからこそである。
しかし「サンプロを知らない若者」はオールド・メディアの「力」を認めていない可能性が高いから、仮に彼(女)らが改革を主張した場合、それは過激なものになるに違いない。徹底した自由競争、アクロバティックに電波停止も主張するかもしれない。
「サンプロを知らない若者」は遠慮しないと評価しても決して過剰ではないと思われる。
オールド・メディアが往時の勢いを取り戻すことはない。ネットを敵視する余裕ももうなくなる。それでもなんらかの改革を通じて斜陽を止めたいと思うのならば、まず偏向報道を止め国民から信頼を得ることである。放送アーカイブの整備はその第一歩と言えよう。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員