この際、論じてみよう。
立憲民主党の石垣のり子議員が高橋洋一氏を「レイシズムとファシズムに加担するような人物」と評して半月以上がたった。高橋洋一氏は石垣議員に発言の根拠を求めているが氏のtweetによると特段説明もないという。
言うまでもなく「レイシズム」「ファシズム」に肯定的な意味は全くなく、高橋氏が民間人であることを考えると石垣議員の発言は人権侵害に他ならない。この騒動を受けてこのアゴラでも日本維新の会の音喜多駿議員が「寛容のパラドクス」について紹介した。
※アゴラ:音喜多氏論考:立花孝志氏VS石垣のりこ議員⁈ 古くて新しい問題「寛容のパラドクス」とは
日本でレイシズム、ファシズムの用語が一般になじみがあるとは考えにくく筆者は音喜多議員が紹介した「不寛容」の語を用いて、この問題を論じた方がわかりやすいと思う。
不寛容勢力が台頭してきた場合、我々が住む(目指す)寛容社会はいかに対応すべきかは非常に重要なテーマであり、石垣氏の発言を機に論じてみるのも良いだろう。
不寛容勢力は「進歩」的だった。
歴史上の不寛容勢力は色々挙げられるがナチス・ドイツ、イタリア・ファシズムはもちろん外せない。また、左派はあまりに指摘しないが旧ソ連を代表とする共産圏も含まれる。
満州事変以降の大日本帝国も含んで良いだろう。雑駁であるが「枢軸国+共産圏」を不寛容勢力に分類しても良いと思われる。
そして枢軸国と共産圏には「社会主義」という共通点があったことはよく指摘される。違いは社会主義に「国家」の冠がつくか否かに過ぎない。
不寛容勢力の中で悪名高いのはナチスの人種差別(根絶)だが、人種差別はナチス以前からあった。ナチス時代の人種差別で特徴的なのはその差別は「科学的根拠」に基づいていたことである。現在では信じがたいが第二次世界大戦前までは人間を人種に基づき区別する「優生学」が市民権を得ていた。その「残滓」として強制不妊手術、ハンセン病患者の隔離も時々話題になる。
満州事変以降の大日本帝国は時期によってトーンは違うが「アジア解放」が帝国の動力が加わった。大日本帝国というと偏狭なナショナリズムばかり強調されるが「アジア解放」というインターナショナリズムも抱えていたことを忘れてはならない。日中戦争も太平戦争もその実質はともかく「アジア解放」を掲げた戦争だった。
社会主義・人種主義・アジア解放、この三つは一見すると何ら関係がないように思えるが、この三つは「進歩」という用語で括ることができる。
社会主義は第二次世界大戦前はもちろん、戦後も「進歩」的思想とみなされた。戦後のかなりの時期まで世界の知的エリートで社会主義を否定するものはいなかった。
科学的根拠に基づく優生学も「進歩」である。「科学的」であることは「進歩的」であるといっても過言ではない。「アジア解放」も欧米列強の植民地支配という「旧秩序」を打破する「進歩」的なものとみなされた。
世界史に残る不寛容勢力は皆「進歩」的思想を持っていた。彼(女)らは自分達の思想を「最先端」なものと考え、それ以外を「遅れたもの」「古いもの」「旧秩序」とみなしていた。
不寛容勢力という野蛮で無知蒙昧、反知性主義の権化なような印象はあるが、これは誤りである。知的で洗練された者が不寛容勢力になるのである。
知的で洗練された「進歩」的な不寛容勢力は独自の「正義」をもっていた。
我々は「正義」は一つしかないと考えがちだが、その行使に着目すれば「正義」は二つある。それは「進歩的正義」と「保守的正義」である。
前者は高尚な理想社会の建設を掲げ、それに向けて「正義」を行使する動的正義である。
動的だから他人に干渉するし、干渉することが本人のためだと考える。
後者は現状維持的な静的正義である。現状維持だから他人に干渉することはあまりしない。少なくとも大々的には干渉しない。他人に干渉しないから社会を変革する力もない。
保守的正義が蔓延する社会は安定と停滞が紙一重の社会である。今の日本がこれにあたる。
不寛容勢力とはこの進歩的正義が抑制を失い排他的になったものだ
歴史上、空前絶後の虐殺を実行した不寛容勢力は、次のような思考プロセスから「確信」に満ちていたに違いない。
- 他人を本人の同意なく長期間施設に入れて教育することは本人のためである
- 反抗するのは教育不足の結果に過ぎない。理解力が乏しいのはもしかしたら遺伝的に欠陥があるのかもしれない。よしじゃあ、医療施設に入れよう。これは「検査」であり、本人のためである
- 反抗するのは病状が悪化している証拠である。緊急事態であり拘束して薬物投与が必要だ。薬物投与したら生体反応がなくなった。なんだ?「患者」は劣等人種だったのか。
- 劣等人種は優生学的にはそもそも教育に適せない。最初から間違っていた。自分達が学ぶ「最先端」の知識ではそうである(!)
…という具合に…。
進歩は巨大な力を有する
進歩は巨大な力を有する。進歩の力の行使の方向が正しければ社会は発展するというよりも「社会の発展」とは進歩あってこそである。進歩の力なしに社会は発展しない。しかし進歩は他人に干渉することを正当化し、ともすれば排他的になりがちだから、その行使については適正手続きが求められる。
適正手続とは相互尊重の「対話」「討論」であり、要する議会制民主主義に基づくことである。大衆運動(直接民主主義)ではなく議会制民主主義(間接民主主義)こそが進歩的な社会を建設するのである。議会制民主主義こそがリベラルな社会を建設できると言い換えても良い。
進歩と大衆運動が結合した場合、その力は過剰で排他的となり社会を分断・破壊してしまう。
ところが戦後日本の左派は進歩と大衆運動の結合に熱心である。そこには左派特有の「市民革命」への憧憬があるのかもしれないが、左派が進歩と大衆運動の結合を目指した結果、大衆運動は排他的となり、過激派の流入を招き大衆運動自体が国民から孤立してしまった。そしてその状況は今も続いている。
日本でリベラルを自称する者は多いが議会制民主主義を軽視・無視するリベラルが多く、その帰結は不寛容勢力に他ならない。
だから筆者から言わせれば議会制民主主義の中枢たる国会前のデモを神聖視したり国会審議を停止させる現在の野党(日本維新の会は除く)など寛容社会を破壊する不寛容勢力そのものであり石垣のりこ議員のレイシズム・ファシズム発言など「自己紹介」にしか映らない。
※(下)に続く(22日掲載予定です)
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員