>>>「不寛容勢力の台頭をいかに防ぐか ~ 石垣議員の発言を受けて(上)」はこちら
中枢を守り経済で攻める
戦後日本はその出発点から強大な進歩派を抱えていた。それは日本共産党を始めとする革新勢力であり、もし在日米軍がなければ1950年代に革新勢力に指導された大規模な大衆運動が国会・首相官邸を占拠し赤旗を立て「人民共和国」の成立を宣言し、それをソ連が承認、対日軍事侵攻を行い日本は共産圏の一員になっていたに違いない。
しかし実際、そうはならなかった。在日米軍の存在がソ連の軍事介入を阻止していたし政界でも保守勢力が再編されるなど革新勢力の対抗軸が形成され、そしてなにより高度経済成長を遂げることで社会主義・共産主義への憧憬がなくなり革新勢力の存在意義が低下したからである。
戦後の保守政権は当初は破壊活動防止法の制定に象徴されるように力で革新勢力を抑圧しようとした。しかし、1960年の安保闘争の教訓から力による抑圧は避けあくまで経済成長を通じて革新勢力の「無力化」を図り、それは見事に成功した。経済成長は完全ではないにしろ進歩派が排他的になることを防止した。
仮に保守政権が当初のように強力な治安立法を制定するなどして革新勢力に力の抑圧を強行していたならば、日本社会は深刻な分裂・混乱に陥っていたはずである。しかし経済成長がそれを回避した。
もちろん保守政権は力を全く無視していたわけではない。保守政権が意識した力はあくまで防御的な力であり、国会に代表される議会制民主主義の中枢を防御するために警察官を増員したに過ぎず警察権限の拡大は慎重すぎるほど抑えられた。増員された警察官が大学紛争などに「転用」されたのは事実だが、その運用も抑制・防御的だったといっても良いだろう。
戦後日本はともすれば不寛容勢力になりかねない進歩派の攻勢に対して議会制民主主義の中枢は力で防御し、それ以外は経済成長を通じて進歩派を掣肘し同派の活力を上手く社会発展に転用させた。
戦後日本は言うなれば「中枢を守り経済で攻める」の戦術に基づき不寛容勢力の台頭を阻止し寛容社会の成立に成功した。この「戦後史」はもっと評価されて良い。
SNS型党派は中枢を攻撃する
「中枢を守り経済で攻める」が戦後日本に寛容社会を成立させたが、近年、SNSの発達により、この戦術を再検証する必要がある。
SNSにより世界中で「類は友を呼ぶ」現象が起きており、過激な者同士が結束し、一定の党派を形成するようになっている。
そしてこのSNS型党派はまさにSNSの特徴を利用して他人を攻撃する。具体的にはSNS上に特定の個人もしくは施設の写真や動画を掲載し、ピンポイント攻撃を行う。
SNS型党派にとって政治・経済の中枢施設は恰好の攻撃対象である。
今、日本では左派からSNS発の国会前デモを神聖視する声があるが、筆者は同意できない。
確かに国会前デモは違法ではないし議会制民主主義に直ちに反するものではないけれどデモ参加者が皆、善良な市民だとは限らないし「中枢を守り経済で攻める」が寛容社会を成立させるのだから消極的評価しか下せない。
少なくとも寛容社会と国会前デモは「相性が悪い」と言えるだろう。だからSNS型党派による政治・経済の中枢への攻撃リスクが高まっている現在、少なくとも「国民の代表者」たる国会議員は国会前デモとの「適切な距離」が求められる。ところが日本の野党は日本維新の会を除いて国会前デモと積極的に連携しているし、国会審議を停滞させ内部から中枢を攻撃している。
今の野党は寛容社会を成立させる「中枢を守り経済で攻める」の戦術の一角を破壊しようとしている。
「経済で攻める」が弱い安倍政権
議会制民主主義の中枢が野党とその支持者によって攻撃される一方、「経済で攻める」も成功しているとは言い難い。
最近「アベノミクス」という言葉もあまり聞かなくなったし今、安倍政権は大規模な景気対策を講じようとしているが、これは安倍政権が景気の失速を自覚しているからに他ならない。安倍政権は「経済で攻める」が弱い。どんなに好意的に評価しても経済が好調なのは大都市圏だけであり地方は大変厳しい。
もちろん地方振興を目指しても加計学園の大学誘致騒動のように東京の大手マスコミが煽動報道を行う恐れがあるから、なかなか難しいという「政治的」現実がある。
当たり前だが地方振興を妨害した野党に景気対策は期待できない。経済政策については与野党ともに効果的な案は提示されていない。
経済政策については超党派で改めて議論する必要がある。
寛容社会を守りたいならば「中枢を守り経済で攻める」を成立させなくてはならない。
およそ政策とは中枢で議論・決定されるから、先ずもって「中枢を守り」を確立させる必要がある。具体的にはいわゆる日程闘争を見直す国会法の改正、政党への過激分子の流入を防ぐ政党法の制定、国会前デモの警備体制の見直し、例えば拡声器・音響機材・プラカードの使用規制も検討されよう。
野党が正常化すれば自民党を含む政界再編も期待でき、そこから「経済で攻める」の実効的が議論がなされるはずである。
寛容社会における「保守」の役割
最後に「保守」について論じたい。進歩に触れた以上、保守にも触れないわけにはいかない。
「保守とはなにか」とは非常に難しいテーマだが進歩の増長を掣肘する、言うなれば進歩の「牙」を抜くことが保守の役割である。社会の発展には進歩は必要である。ただ進歩は力がありすぎて排他的になりやすい。だから保守は進歩が排他的にならないよう適宜、掣肘し、進歩をコントロールしなければならない。
保守は進歩を否定するものではない。進歩を否定するのは保守ではなく「復古」である。保守の使命は進歩の過激化を阻止することである。
この観点からいえば例えば保守は自国の歴史を「断罪」する勢力とは積極的に対決すべきだが「礼賛」する勢力とは距離を置くべきである。自国礼賛、自民族礼賛は保守ではない。断罪に抗することと礼賛に同調することは天と地の差がある。
論を整理すれば保守が「中枢を守り経済で攻める」の戦術に基づき議会制民主主義を通じて進歩を適宜、掣肘し、その力を平和的に活用していけば不寛容勢力の台頭は阻止され寛容社会は成立する。
もちろんこれ以外にも不寛容勢力の台頭を阻止する案はあるだろう。重要なのは石垣のりこ議員のように「席を外す」といった行為ではなく相互尊重に基づき積極的に案を出し建設的な意見交換を行うことである。
「建設的な意見交換が自由社会を守る」という極めて単純で、単純だからこそ忘れやすい意見を述べたうえでここで筆を置きたい。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員