あいちトリエンナーレ:朝生を最後まで見る気がしなかった理由

物江 潤

元旦恒例となっている朝まで生テレビを視聴し始めたのですが、途中で見るのを止めてしまいました。眠気が襲ったことも一因ですが、なんだか平行線のまま話が終わるような気がしたからです。

朝まで生テレビ(元日放送)より

あいちトリエンナーレを巡って、表現の自由はどうあるべきかが議論になっています。朝生でも、天皇の写真を燃やすのは「ヘイト(スピーチ)」であるとする立場と、ヘイトスピーチはマイノリティに対してなされるものであるため該当しないとする立場が見られました。

「表現の自由は守られるべき」という原理原則は、双方の立場が認めるところだと思います。だから、表現の自由を守るための例外(ヘイトスピーチ規制等)は、どうあるべきだろうかという共通の目的を設定できれば、もう少し建設的で冷静な話ができるようにも思いました。

つまり「表現の自由を守るため、例外的に表現を規制せざるを得ない状況はどういった場合だろう」ということです。そこで本稿では、両者の立場になって論を進めてみたいと思います。キーワードは「対抗言論」です。

思想の自由市場論という考えがあります。理性的な人々が自由且つ対等な立場で議論をすれば、神の見えざる手が作動するように、適切な結論に自ずと帰着するという考えです。従って、不適切な表現(主張)は淘汰されるためヘイトスピーチは生じ得ないことになります。

ところが、この思想の自由市場論は、しばしば(ほとんど?)成立しません。例えば、マイノリティがマジョリティに対して恐怖を感じているような状況です。

誰に対しても排外的な言説はよろしくありませんが、そうした表現はとりわけマイノリティにとって深刻であり、対抗言論ができなくなるリスクがマジョリティより高いというわけです。すると、マイノリティの表現の自由を守るべく、「表現の自由を守るための例外(ヘイトスピーチ規制)を設ける」という結論が導かれます。

天皇の写真を燃やすのはヘイトであるとする立場からも、例外が必要という点において同様の結論を導けます。日本国と日本国民統合の「象徴」である天皇の写真を燃やすという行為は、国体や社会秩序に重大な悪影響を及ぼしかねないものです。また、国体や社会秩序が著しく乱れれば、表現の自由も危ぶまれます。当然、対抗言論もままならないでしょう。だから、国体や社会秩序に深刻なダメージを与えかねない表現については制限もやむを得ない、といった具合です。

KBSニュースより

表現の自由を守るための例外は、副作用が極めて強い薬のようなものです。(例外を検討せざるを得ないほど)深刻な状況であるため、主作用・副作用の強い劇薬が求められるのであり、一歩間違えれば、主作用によるメリットより副作用によるデメリットが大きくなりかねません。

だから、努めて冷静な議論が求められますし、実際に例外を設けるにしても、漸進的に事を進める必要があるはずです。朝生的な激論も楽しいのですが、本件に関しては激論ではなく冷静な議論の方がいいように思います。

蛇足ですが、本稿の最後に、三島由紀夫がヤング・ベ平連の高校生と漫画「もーれつア太郎」について会話をしている場面を紹介します。異なる考えを持つ相手とも、三島由紀夫のように余裕をもって話ができる2020年にしたいなと思います。

いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。「もーれつア太郎」は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義に共通する点がある。それはヒーローがいちばんひどい目にあう主題の扱いでも共通している。

私だって面白いのだから、今の若者もこういうものを面白がるのもムリはない。
(中略)
ヤング・ベ平連の高校生と話したとき、「もーれつア太郎」の話になって、その少年が、
「あれは本当に心から笑えますね」
と大人びた口調で言った言葉が、いつまでも耳を離れない。大人はたとえ「ア太郎」を愛読していても、こうまで含羞のない素直な賛辞を呈することはできないだろう。赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。

(三島由紀夫著『三島由紀夫評論全集 第四巻』株式会社新潮社、1989年)
(※筆者注 旧字体と歴史的仮名遣いを常用漢字と現代仮名遣いに修正しています。)

物江 潤  学習塾代表・著述家
1985年福島県喜多方市生まれ。早大理工学部、東北電力株式会社、松下政経塾を経て明志学習塾を開業。著書に「ネトウヨとパヨク(新潮新書)」、「だから、2020年大学入試改革は失敗する(共栄書房)」など。