本日、愛読紙朝日新聞に『ドラえもん』の50周年記念広告が掲載されていた。これが、ドラえもんの世界観をぶち壊しにする、我々市民の心を踏みにじる、空前の駄作だったのだ。
前半の、50周年とはいえ、まだまだ歴史は浅いという「謙虚プレイ」はいい。後半の内容は、ドラえもんのブルジョワ性を明らかにした、ファン、読者にたいする忘恩的な態度を明らかにしたものだったのだ。
クロスメディア展開に成功したとある。たしかに、それは事実である。10数年前に物書き業界に入った頃に聞いたことがある。「メディア界には麻雀のドラのような存在が3つある。ダイヤモンド社のドラッカー、中日新聞社の中日ドラゴンズ、小学館のドラえもんだ。ガハハ!」という話だ。オヤジギャグのようで事実なのだからしょうがない。ドラえもんは「ドルえもん」というほどの、ドル箱コンテンツなのである。
しかし、親子で読んでいる可能性がある朝日新聞でこの広告はいただけない。メディアの企画書ではあるまいし。『ドラえもん』の世界観をぶち壊しにする代物だ。一応、子供たちに支持されるよう奮闘してきましたとはあるが。所詮、『ドラえもん』とは大衆の阿片であり、搾取の道具でしかないことを、版元が自ら明らかにしたのだ。
なんせ、『ドラえもん』の50周年記念広告なみから言うと、夢や友情を感じない。コレ自体が大問題だ。センスが悪い。
私自身、長年、読者として信じてきた『ドラえもん』に裏切られたような気分で残念である。娘が、米国文化帝国主義に毒されないよう、ディズニーランドには絶対に連れて行かないことにしている。ネズミよりも猫だ。ドラえもん、キティちゃんという日本が生み出した2大コンテンツを大切にしている。
そもそも、ディズニーが「イッツ・ア・スモールワールド」と言ったところで、それは米国を中心とした世界観でしかない。このことに気づいてしまい、私はディズニーと距離を置くことにした。
「ドラえもんはロボットじゃない、友達だ!」は名セリフだし、私を衝き動かした言葉だった。しかし、この広告は、ドラえもんも所詮、資本家が甘い汁を吸うための道具にすぎないことを明らかにしてしまった。
同作品の関係者はこのような声を真摯に受け止め、虚心に直視し、敬虔な反省を持つべきだ。人生百年時代。人は変わることができる。ロボットもだ。ドラえもんの次の50年に期待する。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2020年1月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。