時は積もり無情に去って行く。阪神大震災から25年。その時私は隣の都市で市会議員をしていたことを思い出した。今やらねばいつやるの、俺がやらねば誰がやると気負い、地域の為に休みなく活動していた時代だった。しかし、25年前のあの日、無残に倒壊した神戸の街にいくらかでも何かをしなくてはと交通渋滞の中に車を走らせながら、大自然の驚異に愕然とするばかりで、全く無力な自分を自覚するしかなかったことを悔しく振り返るのだ。
自衛隊の車両が緊急事態に対応できず、同じように交通渋滞に巻き込まれていた姿がなんとも言いようがなく、べしゃんこになった民家の前で呆然と立ち竦む被災者の姿を、車窓の向こうに見つめながらどうしていいのかもわからず、ただかき集めた食料品をとにかく神戸市役所に運ぶことくらいしか思いつかなかったのだ。
災害対策などと議論をするには恥ずかしく、ただ一週間くらい阪神間を右往左往しただけで、ささやかに友人の傾いたマンションに行って、大阪に避難させたことくらいしか情けなさとともに思い出せないのである。
知人が被災し亡くなったことを何件も知らされたが、中でも後輩の学生が確か17人ほど3日間も崩れたアパートの下敷きとなり、雨つゆを糧として、生きるんだと言い聞かせ、友人の息づかいが消えて行く恐怖の中で、奇跡的に一人だけ助かって、救助された事への感謝から後に警察官になった若者の体験談を聞く機会があり、心から感動したことが忘れられない。
議員だった職責の故に、大震災の教訓から何を学ぶのかとか、記憶を風化させてはならないなどともっともらしく議会で議論はしたものだったが、何年かして東京に住まいした私の心の中では、時折遠く過去の出来事として、鎮魂の黙祷とともに振り返ることくらいしか向かいあえていないことに無責任の感を免れ得ないと思い続けて来た。
しかもはるかに衝撃的な3.11東北大震災や熊本地震、また各地での台風の被害など、災害の記憶が上書きされるに従って、その都度深刻に防災の必要を国会で聞きながら、具体的に被災した経験と何らかの関係を持たない人のほとんどが、いつの間にか「他人事」になってしまうことを痛感して来た。
戦争の記憶、学生運動の思い出、そして悲惨な災害での人々の慟哭。いやはや身近な人の死さえ、時とともに風化、忘却の彼方へと小さくなっていくものであることをいかんともしがたいものと受け止めて来たものだった。そうでなくてはまた人は新たな希望を感じつつ前へと歩みだしてはいけないと。
しかしそれだけにわれわれは共有する記憶として、そこに向かいあい歴史として現在に生かされるようにしなくてはならないのではないかと考えては来たもののマスコミでも取り上げない限り、見事に忘れ去っていくことを年を経るに従って思いを深めて来た。
私が若い頃に体験して来た政治的現実でさえも、もはや戦後政治史の一部となっていることを最近は実感することが多く、そのことをいくらか悲嘆し、懐かしんでいる自分を自覚して、これが年をとるということなのだとしみじみ感じている。
「若者は未来に生き、年寄りはより過去に生きる」というが、令和になって明らかに昔話に興ずる場合が増えていることに、阪神大震災を思い返すともに、気づさされたところだ。
『絶対の今』に生きよ!若い頃にある高僧に教えられた言葉を思い出している。新しい年を迎えてこれは戒めとしなくてはと思っている。
藤川 晋之助 政治アナリスト、国会議員秘書
23歳の時、選挙の手伝いをきっかけに国会議員秘書となる。代議士秘書、大臣秘書、地方議員、放浪と隠遁生活を経て東南アジアでいくつかの事業に挑戦。帰国後、東京で藤川事務所を設立し、国会議員や首長の政策立案、選挙をサポートする。政官マスコミに幅広い人脈を持ち、田中派・小沢派での豊富な選挙経験を武器に高い勝率を誇る「選挙のプロ」としても名高い。趣味は文学と政治。