「方言」が難解すぎるランキング:方言に後ろ向きな方へ

物江 潤

やはり上位にランクインした東北弁

いらすとや

「方言」が難解すぎる都道府県ランキングというネットニュースを目にしました。上京して間もないころ、方言(会津弁)を冷やかされた経験のある私としては、こういった記事は思わずクリックしてしまいます。が、案の定、東北地方が軒並み上位にランクインしているのを見て、なんとも言えない気持ちになるのでした。

ちなみにですが、難解とされてしまった東北弁は語尾の母音をハッキリ発音するという傾向を持っています。「だから(DAKARA)」であれば、最後のAを他の文字と同様の強さで発することで、なんとなく東北弁のようになるわけです。(反対に東京弁は、最後の母音を短く切ればよい。)

さて、時としてネガティブなイメージを持ってしまう方言には、かつての生活のあり様を知る上でのヒントが隠されています。方言を見つめなおすことは、その方言のあった地域の社会・文化を見つめなおすことに他なりません。

高遠な哲学的思考についてはともかく、わたしたちの日常生活での思考は、わたしたちのもっている言語に、もたれかかっているものだと思う。(中略)そう考えると、出雲市の人たちと、三重県上野市や東京の人たちとは、人倫関係のこういう部分について、考えがちがうということになる。出雲市の人は、既婚の老女と未婚の老女とを別のものと考えて生活している。上野市の人は、この区別に無関心である。上野市の人がこういう人倫の区別ができないわけではない。できる。しかし、それは、そういわれなければ気のつかないほどのことである。
(柴田武著『日本の方言』岩波書店、1958年)

こうした思考の相違について、著者の柴田氏は「方言の宇宙観がちがう」としたうえで、地域社会のちがいが宇宙観のちがいを生んだのだろうと推測しています。私の故郷である会津には女性を指す方言(あねさ、あねさま、あねちゃ等)が5つ程度あり、しかもそれぞれ意味が異なりますが、この区別ができるご年配の方と私とでは見えている世界が違うのでしょうし、こうした区別をする必要性が当時の会津にはあったのでしょう。方言から、かつての故郷が見えてきます。

一方、方言が重要なのは分かるものの、積極的に使用したり子供たちに伝えたりするのは気が引けるという方もいるはず。私のように方言を馬鹿にされた経験があれば尚更でしょう。方言が廃れていった歴史を紐解いてみると、地方の人々自らが方言を手放し、積極的に標準語を習得しようとした姿が見て取れますが、現在の私たちもその延長線上にいるわけです。

「かっこいい」というシンプルで重要なヒント

意外とシンプルなことが、方言を後世に残すヒントになるような気がしています。

スーザン・ボイルやポール・ポッツを見出した英国のオーディション番組「Britain’s Got Talent」に、Only Boys Aloudという合唱団が出場しました。彼らのミッションは、伝統的なウェールズの男声合唱を100年先に伝えることです。ウェールズ語で歌いますから、かつて彼らが手放そうとしたウェールズ語を後世に残す活動でもあります。

合唱団の少年が発した「メンバーであることはかっこいい」という言葉が、彼らの素晴らしいパフォーマンスと同じくらい印象的でした。「かっこいい」という言葉は、とても素朴なものです。しかし、あれこれ理屈をこね、方言を残しましょうと掛け声をするよりも、よほど効果があるのではないでしょうか。「かっこいい」や「かわいい」は、単純だけれども重要な感覚であり、大きなヒントになると思います。

彼らのパフォーマンスは、Britain’s Got TalentのYoutube公式チャンネルで視聴することができます。

故郷の方言に自信を持てない方は、かつて廃れ行く存在であったウェールズ語を武器に会場を沸かせる彼らの姿に勇気づけられると思います。是非ご視聴ください。