実に贅沢な反安倍の「首相との会食」批判

高山 貴男

面会は有力な情報収集手段

反安倍系記者の関心の一つとして大手マスコミ幹部と安倍首相との会食がある。

記者会見する安倍首相(官邸サイトより)

例えば東京新聞所属望月衣塑子記者は「桜の会」の騒動中に会食が行われたことを受けて「現場が取材で奮闘している最中に一体何をしてるのか」と憤っている。

その他にも元NHK記者(現インファクト編集長)の立岩陽一郎氏は「アメリカのジャーナリズムの世界では記者の倫理違反となる」と評している。

総理大臣と記者との会食が引き起こしている問題の深刻さに気付かないメディア(Yahoo!ニュース個人)

しかし、これらの批判は日本の議論文化を無視したものである。日本国首相と大手マスコミ幹部との会食はアメリカではなく日本の話だから日本の議論文化を前提とするのは当然である。

日本の議論文化の特色は公の場で物事を決定しないことである。日本では「打ち合わせ」と称する事前会議で物事を決定する。会食が打ち合わせの場になることは珍しくなく、反安倍系記者も「首相との会食」が単なる親睦会を超えた意思決定がなされる「打ち合わせ」との理解があるから反発しているのではないか。

また、都合の良い批判でもある。記者で「首相との会食」に参加できるのは基本的には記者クラブ加盟の記者であり、未加盟の記者はまず参加できない。

安倍首相も単に「記者」という条件だけで会食相手を選んでいるわけではなく「記者」に加えて「記者クラブ加盟」という条件も加わるはずである。

確かに安倍首相と会食する大手マスコミ幹部が固定化しているのは気になるところだが、そうだとしてもこの問題の本質は記者クラブである。

記者クラブがある限り反安倍系記者が反発する「首相との会食」の可能性は常にあるわけだから「首相との会食」をなくしたいならば単純な話、記者クラブを廃止すれば良い。

これが過剰反応だとしても記者クラブに触れないで「首相との会食」を批判することはバランスを欠くものと言わざるを得ない。

それにしても会食を通じて相手の「本音」や「真意」を探るなんてどんな職業でも大なり小なりやっていることではないか。面会することで相手の評価が変わることなど珍しい話ではないし、もちろん変わらないこともある。いずれにしろ面会は有力な情報収集手段である。だから記者が面会を批判するなど自己否定と言われても仕方がない。

もしかしたら反安倍系記者にとっておよそ「面会」とは既に評価が確定している相手を再確認したり糾弾・籠絡の場に過ぎないのかもしれない。

実に贅沢な話

率直に言って反安倍系記者による「首相との会食」批判は実に贅沢な話である。

普通、内閣総理大臣はもちろん有力者と面会することは簡単にできない。面会とは相手の予定に干渉することだから、その予約を取ることは決して簡単な仕事ではない。相手が有力者なら尚更である。わずか数分の面会を実現するだけでも多大な労力を伴うことも珍しい話ではない。公務員の世界はもちろん、ビジネスの世界ではこんなこと論ずること自体、憚れるのではないか。

だから反安倍系記者が「首相と会食すべきではない」と主張するのは理解に苦しむし、むしろ記者クラブ加盟記者ならば、権力者との物理的近距離を活かして権力者と積極的に面会し、その「真意」「本音」を探るべきだろう。

これは記者クラブにしか果たせない役割であり、権力の監視の一形態でもある。

指名されないのは望月記者だけではない

望月氏公式写真より

冒頭で触れたように望月記者は大手マスコミ幹部による「首相との会食」を批判している。彼女は菅官房長官が記者会見の場で自分を指名しないことに反発しているが菅官房長官が指名しない「記者」とは望月記者だけではない。記者クラブに加盟できない記者もまた指名されないのである。そしてこれは菅官房長官ではなく記者クラブ制度の問題である。

望月記者はもう少し自分の恵まれた環境を自覚すべきではないか。

彼女は昔、劇団に所属していたようだが劇団員が皆「舞台」に立てないのと同じく記者も皆「舞台(記者会見場)」に立てないのである。

望月記者は一度「記者」であることを脇に置いて劇団員時代を思い出したら良い。

もっとも彼女の場合「自分はずっと主役だった。だから今も…」と言いそうだが。