我々の歯痒さの正体。政治家よ危機にこそ理念を語れ

今回新型コロナ流行の事態は、平常時には思いもよらなかったことや見えにくかったが潜在していた社会の課題を明らかにした。様々アフターコロナに検証されるだろうが、政治家、特に安倍政権のリーダーシップに対して鋭い疑問や不満が噴出していることは周知の事実だ。

官邸サイトより:編集部

悪霊や魔女のいなくなった今、現代人特有の科学万能信仰は、天災やウイルス流行などある種の不可抗力さえ、誰かの技術的失敗や準備不足という怠慢に責任を求める傾向が強い。「誰かがヘマをしなければ、こんなヒドイ事態は、技術的に避けられたはず。」と我々は考える。だとすれば技術的落ち度の原因を、時の政権に求めることは、ある種の人情だ。

だが逆に言えば、誰が仕切っても厄介な事態だったわけだから、何でもかんでも「政府が悪い。官僚が悪い。」と言い募ることはある種のうっぷん晴らしにはなっても、現実的な解決にならないとも言える。ごく実際的にもブーイングしたところでもっとましな政権ができるあてもないし保証もない。危機のさ中での政権交代は実務面でのリスクも大きいだろう。

となれば少なくとも当面は安倍政権にがんばってもらう他なく、どんどん積みあがっていく緊急度の高い国家的課題に「覚醒」、いや「限界突破」仕様のリーダーシップであたってもらいたい。

政権に最も求められながら欠けているもの

そのために私が感じる一番不可欠であり重要と感じること。そして今現在忘れ去られたようになされていないこと。

それは10万円やマスクを配ることではない、ユーチューブに出演することではもっとない。いや、逆に言えばどんな施策があっても本来良い。

それは安倍総理に、政治理念にこそ立ち戻り、その理念をこそ語って欲しいのだ。理念をプリンシプル、軸、大義、志、信条。と言っても良い。それこそが政治家に求められる役割であり、選挙の洗礼を受け、正当性のある手続きで選ばれた国家リーダーに許された権利であり有事に際しては義務であると考える。

“専門家”は”専門外は無責任を自認している人”

今回、朝のワイドショーで重用され、危機感を煽りまくってきた一部”専門家”は、危機感ばかりを強調し、実効性のある解決策を提示しなかったため世論をミスリードしたと私は思う。いや、もっと言えばパニックを引き起こした。

4月21日放送「モーニングショー」(テレビ朝日系)で買い物の危険性を訴えた岡田晴恵・白鴎大学教授:編集部

結局、感染症の教授は国難を総合的に解決する実効性ある策や案を持ち合わせてはいないし、それを提示することに責任があるとは微塵も考えていない。地味だった自分の”専門”領域にスポットがあたった恍惚感に酔いながら、最悪事態や何らの人的・資金的裏付けもない空想的な最善手を毎朝滔々とぶちまけている(もちろんそんな片手落ちを、何の検証も反省もなく放送しつづける放送局に最大の責任がある)。

いっちょかみと特権意識で国難を憂う「玉川徹」という欺瞞

毎朝、実効性ある解決策もないまま最悪の恐怖を、権威者と紹介された人に唱え続けられれば誰でもパニックになる。”専門家”のシノニム(同義語)は”専門外には無責任を自認している人”かもしれない。

神奈川県医師会が、「不安をあおるメディア」に投げかける疑問 「医療現場の現実を、知ってもらいたいのです」(J-CASTニュース)

政治家こそが語るべき人

だからこその政治家なのである。元々はウイルスが引き起こすことかもしれないが、国難、人類的災厄、まして第3次大戦に専門家など存在しない。

二言目には「専門家の諮問、ご賛同」などと言っている限りにおいてリーダーに対する信頼も信認もない。かつて何かといえば「弁護士のアドバイスにより」と記者会見した某社元社長のような本末転倒を感じる。弁護士の意見を金科玉条として経営するのであれば、弁護士が社長をやれば良いのである。リーダーとしての自信がないのはよって立つものを見失っているからだ。

有事において国家のリーダーが最優先で考えるべきは、ウイルス流行事態への対応もさることながら、安全保障、国家財政である。コントロールを誤ればどちらもウイルス流行を超える死者を出しかねない国家存立の根幹だ。もちろん、危機的状況だからこそ人権や弱者への目配せも欠かせないし、パニック的集団心理において、法の精神を揺るがせにしてしまえば、そんな国家が再び従前のように再起することは不可能だろう。

この点非常に心もとないのだ。要は軸がぶれている。

自由民主党というぐらいだから、政権のよって立つ理念は。自由主義であり民主主義、もっと言えば科学主義、市場主義であろう。

コロナショック初期において、諸外国に比しても比較的に穏やかだった日本の感染状況をふまえ政府は緊急事態宣言の発令に慎重だった。過熱化する世論の中で、科学主義の観点からも必要性が必ずしも確かでなく、まさに自由民主の精神を根底から否定しかねない私権制限、市場主義を否定するかのような経済政策に躊躇していることは政権内部から断片的にも漏れ伝わったが、ついに国民を説得することができなかった。

感染状況のまったく違う海外追従のようでもあり、世論に押し切られたようでもある緊急事態宣言は、世論からは遅いと言われ、私の様に政権の立場に理解を示していた者には大いなる失望を与えた。

緊急事態宣言発令に際し、専門家会議の尾身茂副座長と記者会見に臨んだ安倍首相(官邸サイトより:編集部)

政権中枢にはかつて「よらしむべし知らしむべからず」の時代を生きてきたベテラン政治家も多く、危機に際してSNS等を通じて膨大な世論がものすごい速度で発信される状況に面喰ったという実相かもしれないが、それでは情けないと言わざるを得ない。

国民はバカではない。マスクやユーチューブに反応しているのはごく現象面のことである。その本質はどんな施策もそのよって立つ理念が見えてこない。行き当たりばったりの思い付きにしか感じないこと、危機にあたり信念さえ見失い、発信できないブレにブレている政治家への失望、信頼感のなさへのブーイングなのである。

「分離」でなく「協力」こそがウイルスと人類が戦う手段

「サピエンス全史」「ホモデウス」でかねてよりウイルス流行の文明に与える影響を指摘してきた、ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「分離」でなく「協力」こそがウイルス流行と人類が戦う対抗手段であると指摘している。

 「多くの人が新型コロナウイルスの大流行をグローバル化のせいにし、この種の感染爆発が再び起こるのを防ぐためには、脱グローバル化するしかないと言う。壁を築き、移動を制限し、貿易を減らせ、と。だが、感染症を封じ込めるのに短期の隔離は不可欠だとはいえ、長期の孤立主義政策は経済の崩壊につながるだけで、真の感染症対策にはならない。むしろ、その正反対だ。感染症の大流行への本当の対抗手段は、分離ではなく協力なのだ。」

『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏、 “新型コロナウィルス”についてTIME誌に緊急寄稿!(Web河出)

一方で強権的管理主義の中国は、自由主義諸国に先んじてウイルス鎮圧を喧伝している。国境も不穏だ。今こそ、日本の国家リーダは自由主義、民主主義、科学主義に基づき、国民を堂々と説得すべきときである。

(私の個人サイト「たんさんタワー」の記事もよろしければお読みください。「【第22回】衝撃の書「ホモデウスを読む」- ウイルス謀略論を一笑にできない、底知れぬ恐怖感」)

胆力があるという言葉を好んで政治家は使うようだが、どうも普段「ドスを利かす」とか「ハッタリをかます」演出か何かと勘違いされているように感じる。本来の胆力は、例え最後の一人になっても揺るがせにできない、人間観、死生観、文明観、哲学、信条を言うものだろう。

安倍総理の胆力に期待するところである。