ピンポイント規制は不可能ではない
新型コロナ有事の現下、クラスター対策の一環として国を挙げて「外出自粛」が唱えられているが、必ずしもうまくいっていないようである。
外出「自粛」の効果が限定的ならば、当然、次は「禁止」と言う話になる。
「禁止」といっても必ずしも罰則を要しないがコロナ対応で求められている「禁止」は罰則を伴うものに他ならない。
世界を見ても「外出禁止」は異例な措置ではなく、むしろ異例なのは外出自粛のほうである。だから日本でも外出禁止を採用すべきだ、と言いたいところだがもちろんことはそう単純ではない。外出禁止とは事実上、集会の自由を禁止するのと同じであり、その反響は計り知れない。巷の「識者」もせいぜい外国の外出禁止の事例を紹介するに留まる。普段、「人権を守れ」とか「立憲主義を守れ」と主張する者が正面から外出禁止を主張できない気持ちはわからなくもない。
そうだとしても日本国憲法は「公共の福祉」を根拠に人権を制約することは認めている。日本国憲法下の外出禁止の可能性を探るものとして例えば原子力災害対策特別措置法では「警戒区域」を設定し同区域に許可なく立入した者に警告(退去命令)を発し、それに従わなかった場合、罰することができる(第27条の6)。
この「警戒区域」の考えを外出禁止に援用するならば、自宅の外をコロナに感染する危険性がある「警戒区域」に設定し、生活必需品の買い出しなど「正当な理由」を除き通行禁止とし、これに反した者に警告を発し、それに従わなかった場合、罰することくらいはできそうである。まあ、「細かな憲法解釈はしない」という前提ではあるが。
もっともこの案は「実現可能性」という点で問題がある。外出禁止に反した者に警告を発するとしても誰がやるのか。警察官、自衛隊、自治体職員を動員するとしても「警戒区域」の範囲はあまりにも広く警察官、自衛隊は人員の配置を変えること自体、危機管理上の問題がある。自治体業務も余力は全くない。コロナ外の業務が停滞してしまう。こう考えると完全な意味での外出禁止は不可能である。
では現下、罰則を伴う移動制限を議論することは無駄なのかというとそうではない。
例えば国会や官邸、議員会館周辺を警戒区域に設定し罰則を伴う立入禁止にすることは意味がある。これらの施設はまさにコロナ対応を行う「本部」「本陣」であり、人間で言えば頭部にあたり、ここがコロナに感染してしまえば日本全体でのコロナ対応ができなくなる。面積的にも対応不可能とは思えない。
筆者はここで主張したいのは全面的な外出禁止は無理だとしてもピンポイント的な移動禁止は可能ではないかということである。
その具体的な可能性を探るために「識者」がいるし、その「識者」として挙げられるのはやはり憲法学者だろう。
言葉選んでますよね!
コロナ対応を巡って憲法学者の存在感は薄いが、もちろん情報発信をしていないわけではない。
例えば憲法学者の木村草太氏は、バズフィードジャパンのインタビューに答え「外出制限」について下記のように述べる
私の意見としては、感染症の専門家が十分な科学的根拠に基づき、今以上に強力な外出制限が必要だと判断したときに、それができるように法律を整備する必要はあると思います。
今回のコロナウィルスに関して言うならば、武漢で都市封鎖が行われた時点で、日本でも同様の措置が必要になる可能性を考慮して、法案を準備しておくべきだったと考えています。
(出典:「政府をリアルタイムで批判すべき」緊急事態と法律、憲法学者の木村草太さんに聞く」バズフィードジャパン)
木村氏は「感染症の専門家が十分な科学的根拠に基づき」というが新型コロナは未知の部分が多く、「十分な科学的根拠」を求めることは難しいのではないか。
また「感染症の専門家」といっても民間人なのだから、彼(女)らに負担を強いる意思決定システムは問題がある。
更に氏は「今以上に強力な外出制限」というがもっとストレートに言えないのだろうか。「自粛」を超える制限といったら「禁止」しかない。回りくどい表現を使っても議論は深まらない。「禁止」と明確化するだけで、その地理的範囲も「都市」といった漠然としたものではなく具体的な地域、数字を伴う議論ができるはずだし、そういう方向に世論を喚起すべきではないか。
木村氏は「法律を整備する必要はあると思います」というが別に氏は「今以上に強力な外出制限」の法律制定に向けて「運動」をしているわけでもない。ジャーナリストのインタビューに答えただけで法律は制定されないだろう。「法案を準備しておくべきだった」とも言うがどうだろうか。仮に安倍政権下で外出禁止を可能とする法律の準備した場合「大騒ぎ」になるのではないか。そして「大騒ぎ」する側に木村氏も参加するのではないか。
憲法学者・木村草太氏は「普通の人」
理由は知らないが日本では憲法学者は「知的指導者」とみられており、その政治的社会的影響力は極めて大きく、憲法学者自身、その自覚はある。
だから他者に対して「まともな相手をする水準ではない」「無責任の極み」「かなりスキャンダラス」「あまりに無責任」「理解不能な水準」「あまりに稚拙」「あまりに姑息」「心の底から呆れ果てる」などと平然と言い切る(「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」に対する木村草太氏の発言)。
しかし、どうだろうか。木村氏の外出制限を巡る回答を見て「知的指導者」と思う者はどれだけいるだろうか。
受身の姿勢で漠然と「法律を整備する必要はあると思います」とか「法案を準備しておくべきだった」という発言に何の価値があるのだろうか。決定的な発言を回避したいという姑息な印象しかない。
木村氏に失礼だがこのインタビューの筆者の感想は「コロナ対応に限れば憲法学者・木村草太氏は『普通の人』」である。
「普通の人」なのだから今は自宅でゆっくり過ごしてほしい。