スペイン:テロリストが暗殺できなかったジャーナリスト、コロナで死亡

スペインでこれまでコロナウイルスに感染した死者の中には著名人も多くいる。4月21日にもそのひとりが亡くなった。彼の名前はホセ・マリア・カジェハ(64)。

彼はスペインでジャーナリストとして活躍した人物だ。彼が一躍注目されるようになったのはバスクのテロ組織「エタ(ETA)」から「殺してやる」と脅迫を受けたにもかかわらずエタを批判し続けたからだ。

それは1980年代にスペインを代表する通信社EFEのバスク支局に勤務した時だった。その頃のバスク地方はバスクの独立を訴えていたテロ組織エタによる犯罪が毎日のように発生していた時であった。彼はEFEからバスクのテレビ局エウスカル・テレビスタに転職し、テレビを通してエタの犯罪活動を厳しく批判する活動を続けたのであった。その結果、前述したように、彼はエタから脅迫され、護衛付きでの生活を余儀なくさせられたのであった。

あの当時を振り返って、ラジオ・コペで早朝からの人気番組を担当しているカルロス・エレラは彼のバスク地方での活動を「エタが鉛のように社会に重くのしかかっていた時のジャーナリズムにおいて、彼は最も勇敢でそれに抵抗した一人だった」と評価した。当時のエタに狙われたら暗殺されることを覚悟しておかねばならない。その脅威を何するものぞと退けて犯罪組織エタを厳しく批判し続けたその勇気をエレラは讃えたのである。
(参照:esdiario.com

1999年からマドリードでの仕事に移り2010年までCNN+での討論番組の司会を務めていた。彼はマドリード・コンプルテンセ大学で情報学で博士号を取得し、カルロス3世大学でジャーナリズム学部の教師として教壇に立ち、その前にバリャドリード大学で歴史学の修士課程を終えている。

彼は18歳の時にフランコ体制を批判して1973-1974年に収監させられたという経験もしている。(参照:lavanguardia.com

3月29日にコロナ感染で入院するまで彼はテレビの色々な討論番組に出演し、数紙のコラムニストで寄稿していた。彼のジャーナリストとしてのスタイルは物事の核心に直接迫って行くタイプで、婉曲は常に避けた。ジャーナリズムの神髄を常に意識して活動していた。その彼のスタイルに共感していたジャーナリストは多くいる。

テレビ6チャンネルで政治社会討論番組ロッホ・ビボの司会を務めているアントニオ・フェレラスは番組の中で彼の死を視聴者に伝えた時は一瞬番組が前に進まないかと思わせるような落胆した姿を覗かせたほどであった。また、政府閣僚の報道官としての任務も務めているマリア・ヘスス・モンテロ財務相も記者会見の席で彼のことに触れて「彼がジャーナリストとして活動した内容はこれから数世代先までお手本になる」と述べたほどであった。
(参照:abc.es

以下に彼が3月17日付で電子紙『el diario.es』のコラムニストとして寄稿した記事がある。その一部をここに紹介する。(参照:eldiario.es

「破壊されつつある中で、殆ど面識もない隣人たちによって市民社会が育ちつつある。今、毎日拍手を送って結束し、期待そして励ましが育ちつつある」

「拍手を送る」と彼のコラムに記載されているのは、毎日午後8時になるとスペイン全国レベルでコロナ治療と看護にあっている医師、看護師そして救急隊、病院の清掃者、スーパーマーケットの店員、食料の配送業者らに市民が住んでいるマンションのバルコニーや窓から一斉に感謝の拍手を送ることを意味している。

コロナ感染者には医療スタッフが治療に当たり、必要な食料はこの封鎖下にあっても市民は食料などを買い出しに行くことができる。医療スタッフやスーパーなどに勤務している人は毎日コロナに感染する危険性を覚悟して勤務している。その勇気ある行動に市民が感謝し、それを拍手することによって表現しているのである。

市民は封鎖されて不要な外出ができないことからバルコニーや窓が隣人らとの意思疎通の場となっている。

彼のコラムを以下に続ける。

「これまで会話を交わしたこともない人たちと(感謝を)共有するということに感動が生まれている。この記事を書いている時の死者は491人となっている。まだ最悪の事態にまでなってはいないという」

「自宅から私は市民がバルコニーからバルコニーへと意思疎通を行っているのを見ている。スーパーの前にできた列も見ている。カートを前に置いてお互いに距離をおいて列に並んでいる。それを事前に訓練したわけでもない。この町内の隣人たちが拍手するという儀式を認識するために8時になるのを私は待ち望んでいる」

「直ぐに利益を求める狂った消費社会の前に、このウイルスは一種の罰であるかのように我々に価値と時についてじっくり思考し、傾聴し、考え直すことを義務づけたものであろう」

「これがいつ終わるのか私には分からない。10月がひとつの地平線とされている。しかし、これが落ち着いた時には出発地点(の生活)に戻ることは殆ど不可能である」

以上は、ホセ・マリア・カジェハが亡くなる前の最後の寄稿文のほんの一部である。

10月を地平線とした彼はそれを見ることなく亡くなった。彼の死はスペインのジャーナリズムの世界はもとより、スペインの主要政党までが彼の死を悼んでツイートしている。彼のジャーナリストとしての存在は一つの灯台の役目を果たしていたことは確かである。