私は、この世に完璧な人間は一人もおらず、己を含め、未完成の集合体だと思っております。どの相手に対しても、リスペクトを持ち、接しております。度を超えた無礼者が現れたならば、立ち向かうと思いますが、その前に異変を感じ、近づきません――之は昨年10月フェイスブックに投稿した『慈母に敗子あり』に対し、宮腰様と言われる方から頂いたコメントです。
同様の主張として、一年程前テレビドラマ化された『頭に来てもアホとは戦うな!』の著者、田村耕太郎さん(元参議院議員)の言があります。アホを「あなたの時間・エネルギー・タイミングを奪う、不愉快で理不尽な人」と定義され、「そんな人間は放っておけばいいのだ。無駄に戦えば、あなたのほうが人生を大事にしない最低のアホになってしまう」との指摘を行われているようです。
此の社会には程度の差こそあれ、少なからず「アホ」が存在します。今の世の中「アホ」ばかりで仕方がないと嘆き俗世を離れ逃避して行き、竹林の七賢人の如く隠遁生活を送るような人は昔から結構います。それは一面、「アホ」の集合体の中で生きて行く一つの究極的な在り方なのかもしれません。
之が老子流の生き方であるとすれば、孔子流の生き方は「周の時代に比べて世の中はこれだけ可笑しいことになっている。もう一度、周の時代のような政治が執り行われる世界に戻さなければならない」といったように、世の中が間違っているから徳治政治により立て直さねば、と考えるのです。
また、「怨みに報ゆるに徳を以ってす」という老子流の考え方に対し、「直(なお)きを以て怨みに報い」というのが孔子の基本的な考え方です。孔子が表現する直(ちょく)とは公正公平を指しており、此の直の追求なしに『論語』で言う「中庸」あるいは「中」の世界には到達し得ないのです。
尤も、老子も「大道廃(すた)れて仁義あり。智慧出でて大偽(たいぎ)あり。六親(りくしん)和せずして孝慈(こうじ)あり。国家昏乱(こんらん)して貞臣(ていしん)あり」と言っています。世の中行くところまで行ったらば、即ち振り子が片一方に振れ過ぎたらば、次はまた逆の方向に動いて、それ変える働きというのが必ず起こってくるわけです。
「アホ」が多いから「カシコ」が目立つのでは、とも考えられましょう。「どの相手に対しても、リスペクトを持ち」ながら、「義を見て為(せ)ざるは、勇なきなり」(為政第二の二十四)として、筋を通し義を貫いて「アホ」の世界を変えて行こうとするのが在るべき姿だと私は思っています。此の生き方を貫き通すと「時間・エネルギー・タイミング」を無駄にすることになる、と思われるかもしれません。しかし、そういうエネルギーが寄せ集まってこそ社会の進歩が齎されるのではないでしょうか。之を否定してしまうと、結局社会の進歩は起こって行かないと思います。
編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年5月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。