これは、アメリカの黒人差別解消運動(BLM=Black Lives Matter)が、単に「警察たたき」「警察予算の削減」的な方向に暴走してしまって、結局差別が放置されることになるのではないかという危惧から、これからの社会問題解決には、そもそも「アメリカ的なやり方」を常に理想として動くことに限界が来ているのではないか・・・という記事を連続で書いている三回目の記事です。
1回目の記事はこちら↓
黒人差別の解決策が「警察予算削減」でいいはずがない
2回目の記事はこちら↓
黒人差別解消運動が単なる反政府暴動になる愚かしさ
今回は、「政治活動家」タイプの人が一番キライな「日本的に“おたがいさま”と考える」発想が、遠回りなようで実は近道であり、今後「アジアの時代」には、アジア本国とアジア系アメリカ人の共鳴関係の中で、社会課題の解決に対する「あたらしい見方」を普及していけるのではないか、その中で私たち日本人が果たすべき役割とは何か・・・について書きます。
アジア系アメリカ人とアジア本国人のインタラクションの中で、白人VS黒人の問題はいずれ調和がもたらされていくはず
アメリカはもっともっとあらゆることが過激なので、前回記事で書いたような「取り締まる側の警察と取り締まられる側の生活者が協力して治安を維持する」的な「相互信頼」の回復などと悠長なことは言っていられないと思うかもしれない。
しかし、どこの国だろうと、この「相互信頼の回復」から始めるしかないです。
アメリカでは、黒人は「白人を怖がらせない」態度を習得する必要がある…と言われています。
以前、アメリカ黒人と結婚して黒人の子供がいる在米日本人女性が、自分の子供にも「変にアンチ警察!みたいになっても良くないから、警察の存在に慣れさせて敵意を持たせないようにする教育をしている」みたいなことを言っていて、それは本当に素晴らしいなと思った記憶があります。
その女性も普段は在米の人らしく、「アメリカ的に個を大事にしよう」という方向で色んな意見を言うタイプの人みたいでしたけど、そういう人でも、やはりアジア人なら普通に「お互いの事情を考える発想」があるものだと思います。
今後アメリカ社会の混乱を収めていくには、長期的にはアジア本国と共鳴しあいつつ発揮される「アジア系アメリカ人の文化」が、「白 vs 黒」に新しい調和をもたらす未来があるはずだ・・・と私は考えています。
以下は昔私の本で使った図なんですが…
こうやって「純粋化しすぎて現実を離れたイデオロギーを、ちゃんと生身レベルのものに転換する」変換器に日本がなっていけば、それはアジア諸国と共鳴しつつ、最終的には「アジア系アメリカ人」を通じてアメリカ社会を変化させていくでしょう。
そのことによって、過去20年間単なる日本の意固地な後進性の象徴だと思われていたものの背後にあった深い知恵も再評価されるし、逆に日本人ですら息苦しくなるような日本社会の閉鎖的な部分を本当にやめることが可能にもなってくるはず。
イデオロギー対立をやめて、「両側のニーズ」を具体的に現地現物で解決していくべき
この「警官に警戒されない態度を取る」問題にしても、もちろん、原理主義的に「平等さ」だけを捉えると、白人なら考えずに済む配慮を黒人ならしなくちゃいけない…というのは許せないことにも見えるわけですよね?
だから、単に被差別者として抑圧されている状況下で、そういう態度だけを求められる状況なら、それに反発するのは当然とも言えるかもしれない。
しかし、これから一緒になってアメリカ社会を差別のないものにしていこう・・・という合意が取れたなら、そこから先はどうしてもこういう問題に踏み込まざるを得ないし、それを原理主義的に拒否し続けるかぎりこの問題は解決しないでしょう。
要するに、「治安の悪い地域で、警官がちゃんと職務を果たすことが可能で、しかも公平性も維持できる状態にするにはどうしたらいいか」を両側から知恵を持ち寄って具体的に解決する必要がある。
その中には、マイノリティの「犯罪率が高い」外見の人が、警官に止められた時に、ちゃんと警戒されずに安全を確認し、かつその人の尊厳を傷つけないような”具体的な作法”を作り込んでいくようなことも必要なはずです。
警察がボディカメラをつけることとか、ジョージ・フロイド氏の死の原因となった首を膝で抑える方法を禁止するとかもその「作法の作り込み」の一部になるでしょう。
しかし、じゃあ首を膝で抑えないんだとしたら、かわりに柔道の寝技(袈裟固めとか?)を指導するとか、「現場の抑止力の事情」をちゃんと勘案した代替案を考えることから逃げてはいけません。
実際に禁止されている州もあったそうですが、それでも実行され続けているならば、単に批判するだけじゃなくて「現場的にそれ以外の方法で抑止できない場面がある」という可能性を疑う必要がある。
そういう「現場側の抑止力の事情」を理解せずに単に差別問題だとして騒ぐ声が大きくなるほど、警察がわに立つ人間は余計に過激化し、トランプ的なモンスターの政治力をさらに押し上げる結果になるでしょう。
そういうところでマイノリティがわに「協力」を要請し、一緒になって「この社会の治安を維持する」っていう目的に向かっている実感が共有できれば、その他の経済面などにおけるアファーマティブアクションとか、教育予算を貧困地域にも分厚く配分するべきとか、今問題になっている色々な改革案も共有しやすくなるでしょう。
私はアメリカ人じゃないから、他人事ゆえに空想的な理想を言っているように聞こえるかもしれません。
しかし、こうやってちゃんと「一周回って跳ね返ってくる論理」を無視して全部「敵」のせいにして騒ぐだけで問題が解決すると思う態度こそが私にとっては空想的な理想だとしか思えません。
アメリカ一極支配の終焉の先で私たち日本人が提示していくべきビジョンとは
今回のアメリカの混乱は、むしろ世界史のターニングポイントぐらいに大きい現象なんじゃないかと私は感じています。
アメリカの混乱がもたらしていることは、アメリカの「覇権」の崩壊だとか、米中のパワーバランスの変化を加速するとか、そういう論調も見られるようになってきました。
もちろんそういう変化も徐々に起きてくるでしょうが、私がこの一週間・二週間で感じたことは、そういう「覇権」的なパワーの崩壊というよりも、「アメリカが持つソフトパワーの崩壊」、もっと言えば「アメリカというブランドの価値」の崩壊…といった効果の大きさを感じます。
要するになんでも「アメリカ的なやり方」でやるのがいいのだ…という「気分」の世界的な崩壊というか。
そういう状況の中で、中国とかは「もう民主主義とか終わった制度だろ」みたいなことを声高に主張してくるわけで、その中でアメリカ的な価値の信頼性を維持できるかどうかがこれから問われるようになってくるでしょう。
でもなんというか、私が言いたいのは「アメリカざまぁwwww」みたいなことではないんですよ。むしろ頑張ってくれないと困るんだけど!みたいなことなんですよね。
果てしなく全部「敵」のせいにしてさわぐ結果、どこにも「オトナ」がいない・・・みたいな状況は、やはり誰がなんと言おうと良くないです。それ以外の「対抗馬」がいない状況ならいつまでもそうやって暴れてればよかったけど、中国という巨大な「別の選択肢」がある時代には…
共産主義国家の対抗馬があることで、資本主義の悪い部分が是正されたように、権威主義国家の対抗馬があることで、「全部敵のせいにして騒ぎ続けるだけ」的な態度も是正される機運が高まる…というようにできればいいと私は考えていて、そういう未来像を描く時、日本という国がこれから果たすべきビジョンも見えてくるだろうと思っています。
「米国一極支配の崩壊」時代における、「私たち日本人にとってのこれから果たすべき役割」について、この記事の続きを書いたnoteマガジンもありますので、ご興味があればこちらのリンクからどうぞ。
それでは、また次回の記事でお会いしましょう。連載は不定期なので、更新情報は私のツイッターをフォローいただければと思います。
- この記事に興味を持たれた方は、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。
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倉本圭造 経済思想家・経営コンサルタント
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