「麻酔」から覚めた金正恩氏の言動

生きているが、意識のない状況といえば、グッスリと熟睡している時かもしれないし、手術を受けるために麻酔状態にある時かもしれない。

当方はこれまで10回余り、麻酔を受けたが、無事目を覚まし今もコラムをせっせと書いている。麻酔状態の時は全く記憶がない。看護師が近づいて麻酔用の呼吸器を口元に持ってきた時まではかすかに覚えているが、その後は完全に記憶が途絶える。何時間後、集中治療室で目を覚ますとベッドにいて、しばらくすると看護師がニコニコしながら「どうですか」と声をかけてくる。

▲金王朝の指導者として自信を持った金正恩書記長 2018年6月12日、シンガポールで開催された初の米朝首脳会談で(ウィキぺディアから)

なぜ、いま「麻酔」が問題か。北朝鮮の金正恩労働党委員長のことを考えているからだ。当方は独自情報はないが、金正恩氏が置かれている状況が時には鮮明に浮かび上がってくるのだ。金正恩氏の言動を解くキーワードは「麻酔」だからだ。

独裁者は常に怯えている。特定の政敵がいる場合もあるが、多くは漠然としているが、敵意のある存在を周辺に感じるからだ。独裁者が病気で手術を受けるケースを考えてほしい。当然、麻酔を受ける。多くの人を殺した独裁者も「俺は無事、目が覚めるだろうか」と考えると不安になる。それだけではない。「目が覚めた時も俺は独裁者だろうか」と深刻になり、不安恐怖症に陥る独裁者がいるかもしれない。独裁者は可能な限り、麻酔を受ける手術を避けるようになる。麻酔状況が怖いのだ。その結果、治療が遅すぎて亡くなるケースが出てくるわけだ。

36歳、170cm弱の身長で体重130kgの金正恩氏は現在、健康状態からは程遠い。ここ数カ月、手術を受けなければならないことが増えてきた。局部麻酔の場合はまだいいが、全身麻酔の場合、先述した不安が出てくる。

全身麻酔の場合、正恩氏は目が覚め、はっきりと意識が戻るまで少なくとも5、6時間はかかる。独裁者がその間、不在ということになる。もちろん、手術する医師は麻酔の量を増やすこともできる。独裁者が目を覚まさないようにしたければ、量を増やせばいいだけだ。李雪主夫人や金与正さんが手術室前で手術の終わるのを待っているとはいえ、「目を覚ました時、果たして依然、独裁者であり続けるだろうか」といった一抹の不安を正恩氏は払しょくできないだろう。

ここで金正恩氏が「不安」に陥る状況をまとめてみる。

①飛行機に搭乗する時
父親金正日総書記は飛行機が怖かった。撃墜される悪夢を払しょくできなかったからだ。その点、金正恩氏は国内視察には国内用専用機に搭乗しているというから、父親のように飛行機恐怖症ではないと見られる。

②潜水艦に搭乗する時
金正恩氏は核兵器搭載可能な潜水艦(SLBM)の建設を目指している。北朝鮮メディアで1度、潜水艦に乗る金正恩氏の写真が掲載されていた。潜水艦が水中に沈む。潜水艦が無事、水上に浮上できるだろうか。誰かがサボタージュして、金正恩氏を潜水艦に閉じ込め、2度と水面に浮上できないようにするかもしれない。陸から一歩でも足が離れた瞬間、金正恩氏はもはや独裁者としてのパワーを失うからだ(「金正恩氏が潜水艦に乗艦した時」2014年6月18日参考)。

③手術で麻酔を受ける時
手術中、医師団が恣意的に金正恩氏の呼吸器を外すかもしれない。医師の中に金正恩氏を憎悪する人物がいるかもしれない。必要な時、パリから心臓外科医を呼ぶが、新型コロナ感染時代、国際便の手配が一段と難しくなってきた(「金正恩氏が恐れる『全身麻酔の世界』」2014年10月1日参考)。

④外遊する時
金正恩氏が訪中のため平壌を離れる時、無事、再び帰国できる保証はない。金正日総書記が2004年4月、訪中から帰国中、特別列車が龍川駅を通過した直後、大爆発が起きたことがある。北の独裁者が平壌を離れる時、誰が留守番を担当するかを見れば、北の権力構図が分かる。金正恩氏が訪中した時、実妹金与正・党第1副部長が平壌に残っていた。

金正恩氏が昨年10月、白頭山に登り、自身の後継者は妹の金与正だと側近たちに語ったという。この情報が事実とすれば、金正恩氏が麻酔を受けるような状況が時が近いことを受け、党内の不穏な動きを抑える狙いがあって、最側近の妹を後継者にすると表明したのだろう。ただし、金正恩氏が実際、自身の後継者を真剣に考えた末の結論だとは考えられない。独裁者は自身の後継者を生前中は公表しないものだ。なぜなら、公表した瞬間、金正恩氏の政治的パワーは失われ、側近も離れていくからだ。

ここまで考えていくと、金与正さんがその後、韓国を批判し、数回会った文在寅大統領に対しても厳しく罵声を浴びせたのは、麻酔で意識を失う回数が増えている兄・金正恩氏の意識不在の間、金与正さんが国内を抑えなければならないからだ。そこで韓国向けに罵声を飛ばす“怖い女性指導者”というイメージを国内外に発信する必要に駆られた。兄から後継者となる帝王学を学ぶためではなかった(「金正恩・与正の『役割分担論』」2020年6月16日参考)。

興味深い点は、金与正さんが韓国に対し軍事行為を示唆し、韓国向け宣伝拡声器の放送の再開など強硬政策を次々と実施中だったが、兄の金正恩氏は6月23日、党中央軍事委員会の予備会議を開き、対韓強硬政策を保留させたことだ。

金与正氏は北朝鮮へのビラ散布に激怒し、南北間の通信線を遮断し、16日には開城の南北共同連絡事務所を爆破させたうえで、①金剛山・開城工業地区への軍部隊展開、②非武装地帯内の監視所の再設置、③前線地域での軍事訓練、④対韓ビラ散布を予告していた。それらが23日、全て保留されたのだ。北の一部で「6月23日の政変」と囁かれている内容だ。

少し推理してみた。

①金正恩氏が麻酔状況から目を覚まし、韓国と戦時状況になっていることに驚き、金与正さんの強硬政策を即停止させた。

②中国の習近平国家主席から電話が入り、対韓強硬政策の中止を要請された、それに代わり、食糧支援の約束を受ける。

③韓国の文大統領から電話が入り、経済的支援の申し出を受け、強硬政策を止めた。

当方は①と②の可能性が高いと考えている。すなわち、金正恩氏は麻酔から目が覚めた直後、習近平主席から直通電話が入り、金与正さんの対韓政策を保留するように強く要請された。金正恩氏は意識が戻ってくるにつけ、妹の対韓政策の危険さを理解し、予備会議といった架空の会議で保留した旨を朝鮮中央通信(KCNA)に流させた、というのが真相に近いのではないか。

金正恩氏は健康体に戻り、国民経済の再生に本腰を入れることができるか。それとも麻酔から目を覚ますことができずに終わるか。金正恩氏に選択肢があることを願っている。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年7月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。