会長・政治評論家 屋山太郎
李登輝氏の訃報を伝える新聞で、感動したのは、日経新聞(7月31日付)で李登輝氏に蔡英文氏が抱き着いて2人で朗らかに笑っている写真である。これは2012年民進党候補の蔡英文氏が当選した時に、師弟で撮られた写真だが、2人の政治姿勢がぴったりと合っていることを思わせて嬉しい。
私が李登輝氏に初めて会ったのは1996年、李氏が総統選に圧勝した直後のことだ。当時親友の山下新太郎氏が韓国大使のあと、台北事務所長(大使)に就任し、「李登輝氏に会ってみないか」と連絡してきたので飛んで行った。李登輝氏が日本語を話すことは勿論知っていたが、日本の新聞記者などが話す日本語より一級上の日本語だった。氏は首のあたりに手をかざして「私は22歳まで日本人だった」というのが口癖だと聞いてはいたが、その日本語は旧制高校を卒業した学生が使う日本語だった。政治表現の中にカントとかヘーゲルなどの哲学者が出ることも多く、内容は極めて難解だった。
それまでお付き合いした政治家の中で最も尊敬するのは中曽根康弘氏だが、その中曽根氏を囲んで読書会をしたことがある。そのとき配られたのは時代遅れの哲学書だった。同席の2人は東大教授で、その中で中曽根氏は堂々と意見を吐く。李登輝氏と会った時に「この人は中曽根さん級だ」と判定した。外国の政治家で最も優れた人物は李登輝氏を措いて他にないだろう。
目的を定めてそこに人を引っ張って行くのが政治家だが、李登輝氏は目標のはるか向こうに民主主義、自由の世界が見える。しかし手前に邪魔が多すぎて、初回に面会した当時は行方が危ぶまれていた。旧体制のまま蒋経国氏の後を引き継いで、その後少しずつ人事を変える。それによって目的達成に近づいてきた術はアラブ辺りには見当たらない力量だ。
蔡英文氏の2度目の圧勝は香港のおかげといっていい。国論が“反中”へ一挙に動いたのである。続いて親中の高雄市長韓国瑜はリコール運動で一発で沈没。国民党の看板スターが次回総統選挙で言わねばならないのは「中国との距離を保つ」というセリフしかない。こういう動機を起こしたのは李氏の生み出した選挙という仕掛けである。総統選を続けて行けば台湾世論から親中の心情が抜けていくのは必然だ。
ここまでは誰もが想像できる筋書きで、中国といえども台湾の独立志向の進行は読み筋ではないか。人心の離反は武力で引き留めるしかない。それも先に行けば行くほど難しくなる。とすれば台湾に手を出すなら「いまだ」と考えるほうが普通である。南シナ海辺りの中国海軍は、攻撃の一歩手前の運動なのか。
幸か不幸か、いま日本は中国が打ったロケットが日本の都市に着弾するまでに、敵基地を叩く超スピード兵器を開発しようとしている。またサイバー兵器を開発する手もある。これは中国の台湾攻撃を防ぐ効果もある。
(令和2年8月5日付静岡新聞『論壇』より転載)
屋山 太郎(ややま たろう)
1932(昭和7)年、福岡県生まれ。東北大学文学部仏文科卒業。時事通信社に入社後、政治部記者、解説委員兼編集委員などを歴任。1981年より第二次臨時行政調査会(土光臨調)に参画し、国鉄の分割・民営化を推進した。1987年に退社し、現在政治評論家。著書に『安倍外交で日本は強くなる』など多数。
編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2020年8月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。