求められる21世紀の「新しい神話」

朝日新聞デジタルは7日、ミシェル・オバマ前大統領夫人が「軽い欝(うつ)状況だった」と告白した、と報じた。うつ病は社会的地位や経済的事情には関係なく現代人が陥りやすい精神的病だ。

米国カトリック教会リンカーン教区のジェームズ・コンリィ司教(64)は昨年、うつ病のため休職を申し出た。司教はうつ病になり、不安恐怖症の症状を呈し、数カ月前から不眠と耳鳴りが続く症状だと述べている。神を信じる教会高位聖職者すら時にうつに陥ることがあるわけだ(「米教会司教が“うつ病”で休職申し出」2019年12月16日参考)。

ロンパイン湖上空を通過するネオワイズ彗星(7月23日、NASA提供)

科学が進歩し、多くの自然現象、社会現象も論理的に解明される時代に生きている。その一方、神仏を信じる宗教人は自身の信仰を科学的に整合できる説明責任を感じ出している。「科学と宗教の統合」という表現は美しいが、実際は科学が宗教を凌駕している状況を呈してきた。換言すれば、「知ること」は「信じること」の世界まで侵入し、その結果、現代人は「知るパワー」が肥大化する一方、「信じる力」は次第に減退してきたのを感じてきた。

しかし、脳神経学者や一流の科学者が指摘するように、私たちが知っている世界は全体の数パーセントに過ぎない。知っているようで、私たちは余り知っていないというわけだ。宇宙の大多数を占める「暗黒物質」が何かすらまだ分かっていない。私たちは「知の賢人」を目指す成長途上の人間に過ぎない、というのが現実だろう。

問題が生じる。「知の賢人」になるまえに、「信じる力」を失ってしまった場合だ。中途半端な「知」を保持する一方、「信じる」パワーを失った人間、これが現代の私たちの偽りのない姿ではないか。これは深刻な問題だ。

近代教皇の中で最高の神学者ともいわれる前教皇べネディクト16世は、「現代人は虚無主義に陥る危険性がある」と警告を発してきた。知の世界が拡大する一方、信じる力が縮小する中で、価値の相対化が進み、最終的には何も信じることができない、といったニヒリズムの世界に落ち込むというのだ。デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールが言っていた「死に至る病」だ。

ジークムント・フロイト(1856~1939年)は1917年、人間に屈辱を与えた3つの出来事を挙げている。①コペルニクスの地動説、②ダーウィンの進化論、そして③フロイトが提示した無意識の世界だ。この3件の出来事を通じて、人類が自身の運命の主人ではないことが明らかになり、人類は威信を失ったというのだ。

フロイトの告白は何を意味するのか。太陽を含む全ての天体が地球の周囲を公転しているのではなく、地球が自転しながら太陽の周囲を公転していること、人間は神が創造したものではなく、他の森羅万象と同様、進歩の結果であること、そして人間の言動は認識に基づいた理性的な反応というより、脳内に刻み込まれた無意識の操作の結果だというのだ。その結果、人間は威信を失い、屈辱感を味わったというのだ。

フロイトの結論は少々、早とちりだとの批判を免れないだろう。科学の今後の発展を待たないと結論を下せないからだ。ただし、「知ること」がイコール人間の幸福感につながらないという事実は否定できない。人は誰でも幸福を追い求める。知ることで人間は過去、多くの不安を解明し、克服してきたが、「知ること」でフロイトのように屈辱を感じる人間も出てきた(「『知ること』が生きる力となる為に」2020年7月6日参考)。

それでは、科学と宗教は対立関係だろうか。それとも相互補完関係か。科学の発展で既成の宗教の世界は次第にその影響を失っていくと考えられてきた。科学が「神の正体」を暴露する時がすぐ傍まできているというのだ。そのような思考の世界では科学の近い将来の勝利を予想せざるを得なくなる。

しかし、現実はそのようには展開していない。「知ること」で物質的栄華を享受できるようになったが、人間はそれだけでは満足できないばかりか、新たな不安に次々と襲われてきたのだ。

科学がまだ発展していなかった時、人類は眼前の未知の世界に対して不安を感じると共に、その未知の世界を理解するために「神話」を考え出し、その内容を信じることで不安をなだめ、未知の世界と和合してきた。

それでは現代人は何をもって無限で広大な宇宙と和合できるだろうか。知をもって和合するには余りにも人類の知は微力だ。ここに「新しい神話」が必要となるわけだ。その神話が描く世界を「信じる」ことで、無限の宇宙の彼方にある存在と交流し、ひょっとしたら和合していく道が切り開かれるのではないか、という希望が生まれてくる。

この「新しい神話」の世界を宗教と呼ぶかどうかは別として、知る世界の足りない部分を補足する意味からも緊急に必要となってきた。そして「新しい神話」の世界を21世紀の現代人に提示できる人物が現れてきたら、その人物こそ私たちが秘かに待ち望んできたメシアというべきかもしれない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年8月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。