政策提言委員・元陸自小平学校副校長 矢野 義昭
日本をめぐる安全保障環境は近年、急速に緊迫の度を高めている。
尖閣諸島では今年に入り、中国武装船が連続111日間周辺海域に出没して領海侵犯を繰り返し、10月11日から中国海警局の武装警備船2隻が連続57時間39分にわたり大正島沖で領海への侵入を続け日本漁船を追尾した。
中国は、我が国固有の領土である尖閣諸島を、台湾と同様に「核心的利益」と位置付けている。そのことは中国共産党指導部が、人民解放軍に対し、最大の使命である「祖国の完全統一」のため、台湾とともに尖閣諸島を奪取せよとの任務を既に付与していることを意味している。
習近平中央軍事委員会主席は今年10月、深圳経済特区設立40周年記念式典の直前に、台湾に対する水陸両用作戦の尖兵となる海軍陸戦隊を訪問し、領土保全、海洋利益、海外利益を守り、戦争準備に全力を注ぎ高度の警戒態勢を維持するよう要求している。
中国の戦略家たちは、尖閣諸島は台湾と一体となり太平洋への出口を閉ざす閂とみている。台湾侵攻があればそれに連携して尖閣諸島への侵攻が生起する公算は高い。また、米国の大統領選挙後の政治的意思決定が停滞する時期を狙い、尖閣諸島を奇襲的に占領し既成事実化を試みるおそれもある。
このような事態に対し、我が国は十分に対処し得る態勢にあるのであろうか?
憲法そのものに緊急事態の規定がなく、憲法第9条の規定についての政府解釈に拠れば、自衛隊は軍隊でも戦力でもなく、あくまでも「自衛力」に過ぎない。また自衛隊に関する法体系は創設期の警察予備隊時代の警察法の体系を引きずったままになっている。
その意味で法的には、自衛隊は、国際の法規と慣例に反しない限り任務達成のために何でも許される「ネガティブ・リスト」によって行動を律せられる軍事組織ではない。法令により許された範囲内でしか行動できない、いわゆる「ポジティブ・リスト」により行動を律せられる警察組織であると言える。
かつ、厳格なシビリアン・コントロールに服しているため、現場部隊の自主裁量の余地は極めて限定され、細部の行動に至るまで政治サイドからの命令指示を待って行動しなければならない。
通常の国では、国境守備隊の連大隊長級指揮官や領海警備に任ずる海軍の艦長に、平時から委任されている、平時の自衛権も認められていない。また陸海自衛隊には、領域警備の権限も与えられていない。
そのため、不可避的に現場での情勢変化への対応は遅れがちになるであろう。特に、防衛出動下令がなければ何も対処行動をとれないに等しい現在の関連法制の下では、適時に防衛出動が下令されるか否かが、事態を初動段階で我に有利な態勢で収束できるか否かを決定すると言えよう。
現実に尖閣諸島に侵攻があった場合には、事態は短時間に急速に進展すると予想される。侵攻する中国側としては、日本の自衛、反撃を封ずると同時に、米軍の介入前に既成事実を創り上げ介入の口実を与えないことが、最も重要な戦略的要請になるとみられるためである。
中国自らは、迅速効率的な指揮組織を整備している。2015年以来の軍改革により、全武装力量に対する統一指揮・統率権を有する習近平中央軍事委員会主席の権限は一層集権化され、中央軍事委員会が5大戦区を直接指揮する態勢が整えられた。中でも、海洋利益を守る海警局は人民武装警察の隷下に入り、かつ中央軍事委員会の直接指揮を受けることになった。
全武装力量には人民解放軍、人民武装警察のほか、民兵も含まれ、海洋利益保護のために海上民兵が海軍・海警と一体となり行動するとみられる。従って、中央軍事委員会の直接指揮が海軍、海警、海上民兵全体に及ぶ、効率的な指揮組織になっている。
このため、中国側の国家意思に基づく対応行動は、現場レベルでも状況変化に応じ機敏かつ柔軟に急展開されるであろう。海警掩護下の海上民兵による奇襲上陸から始まり、海空戦力の展開、海軍陸戦隊の増援・占領などの段階を経て、おそらく数日以内に尖閣諸島に陣地を構築して対空・対艦ミサイル、レーダなどを展開し、周辺海空域を海空軍で封鎖し、奪還が容易ではなくなる態勢を創り上げるものと予想される。
そうなれば、わが方としてはかなりの犠牲を伴う困難な島嶼奪還統合作戦を行わねばならない。しかしそのような能力や練度が現在の陸海空自衛隊にあるかは疑問である。また、政治的に、人的犠牲を出すことや事態拡大の予想に怯んで、迅速な奪還を決断できないかもしれない。
防衛出動も下令されず自衛隊は動くことがないままに、尖閣諸島占領は時間とともに既成事実化される。そうなれば、日本が尖閣諸島を実効支配しているとは主張できなくなり、米軍も日米安保条約第5条の対象ではないとみて動かず、国際社会に訴えても事態打開はできなくなるであろう。
それを回避するには、自衛隊が独力で先行して尖閣諸島に上陸し、中国側の侵攻前に確保する必要がある。そうすれば尖閣侵略に対する強力な抑止力となり、尖閣諸島確保のためには最良の対応策になると言えよう。しかし、それすら中国を刺激するとして政治サイドが適時の実行を躊躇すれば、いずれ中国側に先手を取られて尖閣諸島は奪われることになるであろう。
そもそも我が国には戦略を編み出し実行できる国家レベルの態勢が欠落している。戦略的な意思決定と計画・実行には、一般に以下の段階から成るサイクルがある。
① 国家理念、戦略目標に基づく死活的国益の分析
② 死活的国益に対する脅威の分析
③ 脅威対象に関する情報要求の明示、情報の収集・分析・評価と脅威シナリオの案出
④ 脅威シナリオに応ずる複数の戦略方針案の案出とそれらの分析・比較
⑤ 最良の戦略方針の決定
⑥ 最良の方針に基づく国家レベルの戦略計画の策定と同計画に基づく軍、警察、各省庁、地方自治体、民間防衛組織などへの任務付与
⑦ 国家レベルの訓練による各組織の任務遂行能力の錬成、能力の維持向上
⑧ 有事の国家総力を挙げた対処行動の実施
⑨ シンクタンクや教育機関を通じた教訓の抽出と普及
⑩ 新たな戦略目標の設定。
⑩以降では、新たな戦略的意思決定サイクルの①に入る。
現在、国家安全保障会議は設置されているが、行政組織の性格が強く、作戦運用の中枢として機能しているとは言い難い。戦略サイクルを回す作戦運用の中枢として機能するには、軍事組織の指揮官・幕僚としての教育・訓練を積んだ人材が主体となり運用しなければならない。
また戦略サイクルを支える諸組織も整備しなければならない。国家レベルの情報組織の創設、特に現在欠落している対外情報を得るためのヒューミント能力、スパイ活動を封じ破壊工作等から国家・国民を守るためのスパイ防止法の制定とカウンターインテリジェンス機能の強化も必要である。
宇宙・電磁波・サイバー戦などの新しい領域での情報・作戦運用能力も高めなければならない。国家としての民間防衛態勢も予備役制度も無きに等しい。戦争学や軍事・安全保障に関するシンクタンクも大学の学部、学科も殆どない。
我が国では、学校教育でも国防意識の教育も軍事一般についての教育も訓練も為(な)されていない。また軍事忌避意識が政財官学、メディアを問わず蔓延しており、軍事的な常識や発想が欠けている。そのために、自衛隊の特性を理解し活かしきることもできない。
このような弱点は、シビリアン・コントロールの責任を負う政治家、それを行政面で支える各省庁の官僚においても同様である。そのため、危機時も行政感覚でしか対処できず、省庁縦割り態勢のままで、法規の枠内、先例主義、予算枠に捕らわれ、急展開する危機事態に危機管理の観点から臨機応変に対処することができない。
この弊害は、東日本大震災対処、今回の新型コロナウイルス対処でもみられた。尖閣有事にも、この弊害のために適時の部隊配備や防衛出動下令などが為されないおそれがある。
戦争を避けようとするならば、戦争に備えなければならない。予測し得る戦争シナリオを想定し、対応策について、自衛隊のみではなく、国家レベルで計画化し共有しておかねばならない。
そのためには、直接シビリアン・コントロールに任じ防衛出動下令などの重大な決心を下す責任を負う内閣総理大臣、防衛大臣はもとより、関係大臣、国会議員、関係省庁の主要な行政官、地方自治体、民間団体も参加し、国家から地方レベルまでの各段階でシミュレーションを繰り返し、最善の方針をシナリオごとに決定し、計画化して共有しておく必要がある。
また国会で秘密公聴会を開催し、自衛官その他の関係者から秘密情報を直接聴取し、国会議員が最新の軍事情勢などを知悉する場も必要である。
さらに計画に基づき、自衛隊のみならず、警察、地方自治体、民間組織等も含む国家レベル、それを受けた地方レベルの訓練を積み上げて、必要な練度を維持しておかなければ、危機時に国家レベルで戦略サイクルを回し危機を乗り切ることはできない。
また計画内容については、紛争当初の対処方針、計画のみならず、民間防衛、継戦能力の維持、動員態勢、講和条件、戦後体制の在り方まで、一貫した戦争計画を持っておかなければ、長期にわたる国家の存続と死活的国益の確保はできないであろう。
そのためには、平時からの戦争への備え、絶えざる研究と訓練の積上げ、その成果の普及が必要不可欠である。中国はその点、共産党独裁体制とは言え、戦争への備えを常に国家運営の中心に据え、打てる手を着実に打っている。彼我の格差を思うと、尖閣防衛の困難さに改めて思い至らざるを得ない。
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矢野 義昭(やの・よしあき)
1950年大阪生まれ。京都大学工学部機械工学科卒。その後同文学部中国哲学史科に入学、1974年卒業。自衛隊久留米幹部候補生学校に入校。普通科幹部として、第6普通科連隊長兼美幌駐屯地司令、第1師団副師団長兼練馬駐屯地司令などを歴任。2006年、小平学校副校長をもって退官(陸将補)。核・ミサイル拡散、対テロ、情報戦などについて研究。現在、JFSS政策提言委員。著書に『核の脅威と無防備国家日本』『日本はすでに北朝鮮核ミサイル200基の射程下にある』(光人社)、『世界が隠蔽した日本の核実験成功 ―核保有こそ安価で確実な抑
止力』(勉誠出版)など。
編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2020年10月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。