法令解釈の変更は問題ではない
学術会議会員の任命拒否を巡って内閣による法令解釈の変更自体、批判する声が上がっている。もちろん行政機関が法令解釈を変更することは問題でも異例でもない。
例えば菅首相は総務副大臣時代に各地方自治体に朝鮮総連関連施設への固定資産税の減免措置の再検討を要請し(法的拘束力はない)、これを受けて各地方自治体は減免措置を取り消した。
これは法令の改正ではなく、その解釈の変更で行われたものである。さすがに朝鮮総連側は訴訟を起こしたが、その結果は敗訴である。この事例で重要なことは法令解釈の変更で「納税の義務」の基準が変更された事実である。
これと比較すれば学術会議会員の任命拒否など実に些細な話である。任命拒否された学者の権利義務になんら変更は生じていない。
今の日本は法治国家であると同時に行政国家でもある。
法令解釈の変更自体を批判する姿勢は行政の機動力、柔軟性を著しく低下させ国民に不利益しか与えない。
期待できない「後世の検証」
左派マスコミは学術会議会員の任命拒否で倒閣が難しいと思ったのか、最近、発刊された菅首相の著書で公文書管理の記述部分が削除されたことを問題視し始めた。出版物を攻撃するなど言論弾圧に他ならないが、それはともかくまた公文書である。
いつものごとくSNS上では「公文書を残そうとしない! 後世の検証ができなくなる!」といった批判がでているが、学術会議騒動はこの「後世の検証」の現実を教えてくれた。
学術会議騒動では40年近くの前の中曽根首相(当時)の国会答弁の一部分だけが切り抜き、強調されている。
学術会議については日本共産党の影響を語る関係者の証言、しかもかなり高名な学者の証言があるにもかかわらず、野党と左派マスコミはそれを無視して一答弁の切り抜き、強調を平然と行っている。
このように学術会議騒動では40年近く前のことすら党派的解釈が平然と行われているのである。突き放した言い方をすれば「後世の検証」など所詮、この程度の話である。
我々は「後世の検証」についてもう少し冷静になるべきではないか。
後世の人間が過去を公平かつ客観的に評価するとは限らない、後世の人間が過去を党派的に評価しないという保証はなにもない。百歩譲って公平かつ客観的な評価がされたとしても、それが政策に反映される保証はない。
だから公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」(公文書管理法第一条)などと過剰に称賛すべきではない。どんな知的資源も利用者次第で毒にも薬にもなる。公文書管理に神経質になる必要はないし、なるべきではない。
あくまで現在の人間は後世より現在を意識して行動すべきである。目の前の出来事に責任をもって対応する、そしてそれを積み重ねていくことが現在の人間がやるべきことである。
後世を意識して目の前の出来事に対応できないなど本末転倒である。
行政は危機を迎える可能性大
行政による法令解釈の変更自体を批判したり公文書管理がさも行政の第一目的かのごとく論ずるのは誤りである。
この誤った論調は2017年の森友学園に係る土地取引を巡る議論を機に野党と左派マスコミがつくってきたわけだが、これが続けば行政の事務量の増加は止まらず、行政は文字通り危機を迎える。中央省庁にはもうその兆候が出ている。
仮に行政が事務停止の状態になった場合、野党と左派マスコミはどう反応するのだろうか。
おそらく得意満面の笑みを浮かべて「なぜ、事務が停止になったのか。それまでの経緯を記録した文書を示せ」と言うだけではないか。