仏の「ライシテ」の拡大解釈は危険だ

長谷川 良

トルコのエルドアン大統領は時には血気に走る指導者だ。パリの風刺週刊誌「シャルリー・エブド」がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載し、それに対しマクロン大統領が24日、「わが国には冒涜する自由がある」と弁明したことがよほど頭にきたのだろう。

「マクロン氏は精神の治癒が必要だ」と侮辱しただけではなく、イスラム教への批判を強めるマクロン氏に対し、26日には「フランス製品のボイコット」をイスラム教国に呼びかけたばかりだ。

▲トルコのエルドアン大統領(トルコ大統領府公式サイトから)

外交の世界では、欧米が“ならず者国家”に対して実施する資産凍結、入国禁止などの制裁は「スマート・サンクション」(Smart Sanction)と呼ばれ、一般国民に制裁の悪影響が及ばないように制裁範囲を限定する。実質的な制裁というより、象徴的な意味合いが強い。不買運動は制裁というより、いやがらせというべきかもしれない。

ただし、国や政治家には効果はないが、国民の生活に影響が出てくる。スマート制裁は効果が期待できないとして、戦略的制裁へ格上げをした場合、制裁される側だけではなく、する側にも一定の痛みが伴う。マクロン大統領とエルドアン大統領の「言論の自由」に関する抗争がこれ以上激化しないことを願うだけだ。

問題は、マクロン大統領が風刺画の掲載を「言論の自由」として一歩も譲歩する姿勢を見せていないことだ。その理由として同国では「政教分離」(ライシテ)が施行されているからだという。ライシテは宗教への国家の中立性、世俗性、政教分離などを内包した概念であり、フランスで発展してきた思想だ。

フランスがライシテを標榜する権利はあるが、自分がそれで納得していても、相手が理解できない場合、説明する必要が出てくる。フランスとトルコの論争を見ると、その必要性を強く感じる。

フランスは1905年以来、ライシテを標榜し、時間の経過につれて、神を侮辱したとしても批判を受けたり、処罰されることがないと理解されてきた。なぜならば、国家は如何なる場合でも宗教には関与しないからだ(宗教に対する中立性)。しかし、その考えはライシテを表明すれば他の国民の宗教性を完全に無視できるという論理にもなり、暴論になる。

「政教分離」は逆にいえば、宗教は国家から如何なる干渉を受けることなく、宗教活動ができることを意味する。「宗教の自由」は保障されていることになる。ところで、信仰を有する国民が自身の信仰、その教祖への冒涜を容認できるだろうか、という問題が出てくる。

少なくとも、自身の教祖を冒涜された国民への名誉棄損が成り立つ。神への「冒涜の自由」は認められるが、その神を信仰する個人の名誉棄損は許されない、という理屈は、人間中心主義を徹底化した考え方であり、神仏への極端な排他主義に通じる。

フランス革命は世俗主義、反教権主義を主張し、人間の権利を蹂躙してきたローマ・カトリック教会とそれを背景にした王制貴族社会への抵抗だった。国民は自由、平等、博愛の人道主義を掲げて立ち上がった。

ここで看過できない点は、人間の生来の宗教性は完全には無視できないことだ。反教権主義は既成のキリスト教会(この場合、カトリック教会)への抵抗であり、訣別を意味するが、国民の「神」からの決別ではなかったことだ。実際、フランスは欧州一のカトリック教国だ。

少し説明する。何らかの理由で教会から距離を置いたとしても、神を批判したり、冒涜できる自由を正当化することはできない。教会=神ではないからだ。フランス人の宗教性は「教会の神」に抵抗したとしても、それで自身の宗教性を消滅させることはできないのだ(「人には『冒涜する自由』があるか」2020年9月5日参考)。

人間は生来、宗教性を有しているから、神を求める。ライシテは既存の教会から決別を宣言したが、神と別れたわけではないから、ライシテは国民の宗教の自由を尊重せざるを得ない。神への冒涜は政教分離に基づいた「言論の自由」から認められるという理屈は、屁理屈に過ぎない。

フランス革命が掲げた人道主義が最終的に行き着いた先は徹底した無神論国家の唯物主義を国是とした共産主義世界だった。フランスで共産主義国家が誕生しなかったのは、国民の「信仰の自由」を認めていたからだ。そうでなかった場合、フランスはロシアよりいち早く共産主義国家となっていたかもしれない。

ライシテが非宗教性、中立性、世俗主義を標榜する一方、国民の「宗教の自由」を認めることで、共産主義の侵略を阻止できたわけだ、フランスを共産主義から救済したのは国民の宗教性であり、「信仰の自由」だった。

繰り返しになるが、フランスが「政教分離」で決別した「神」はあくまでも中世時代に強権を誇った「教会の神」であって、「本来の神」とは全く関係がないから、神への冒涜はやはり許されない。特に、「他の神」を信じている国民に対し、「教会の神」ゆえに冒涜の自由を認めることはライシテの拡大解釈に過ぎない。

例えば、現トルコは「政教分離」を宣言していない。彼らが信仰の対象としている神は「イスラム寺院の神」だとしても、その神への冒涜は許されない。なぜならば、「本来の神」とは国民一人一人が内包している宗教性に繋がっている存在であり、神への冒涜はそのアイデンティティへの攻撃にもなるからだ。エルドアン大統領の激怒は政治的パフォーマンスを差し引いたとしても、当然の反応といわざるを得ないのだ。

「私はシャルリー・エブド」ではないし、「私は教師」でもない。「信仰(神)を冒涜する自由を認めない私」だ。そんなプラカードが見られる日がフランスで来るだろうか(「今こそ“第2のフランス革命”を」2020年9月29日参考)。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年10月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。