今こそ“第2のフランス革命”を

長谷川 良

フランス国民は一見、西欧諸国の中でも最も自由を謳歌しているようで、「自由にも制限がつく」とはなかなか言い出せない。政治家も国民の多くも「他者を冒涜する自由がある。なぜならば、それが自由だ」と信じているのだ。そうでなければ、多分、多くのフランス人にとって歴史を通じて獲得した「自由」が消滅してしまう、といった不安に脅かされるからだ。その意味で、フランスは案外、欧州で最も「不自由な国」なのかもしれない。

以下、パリの左派系風刺週刊誌「シャルリー・エブド」テロ襲撃事件を契機に浮かび上がったフランス国民の「自由」への一考だ。偏見と独断もあるかもしれないが、当方にはフランス国民を誹謗、中傷する考えはまったくないことを断っておきたい。

仏風刺週刊紙最新号を1面トップに報じるオーストリア日刊紙プレッセ14日付(2015年1月14日撮影)

先ず、5年前の事件とその後の経緯を簡単に振り返る。

①2015年1月7日午前11時半、パリの左派系風刺週刊紙「シャルリー・エブド」本社に武装した2人組の覆面男が侵入し、自動小銃を乱射し、建物2階で編集会議を開いていた編集長を含む10人のジャーナリスト、2人の警察官などを殺害するというテロ事件が発生した。

「シャルリー・エブド」誌は、2011年と12年にイスラム教の預言者ムハンマドを風刺した画を掲載。13年には「ムハンマドの生涯」と題した漫画を出版した。イスラム過激派グループからは報復の脅迫メールを何度も受け取り、警察側は警備を強化していた矢先だった。

フランスのオランド大統領(当時)は事件直後、テレビを通じて国民向けに演説し、「我々の最強の武器は自由だ。自由は蛮行より強い」と述べ、国民に連帯を呼びかけた。そして3日間、テロ犠牲者への「国民追悼の日」とし、国内の国旗を半旗にすることを決めた。パリ市民はテロ事件の直後、「Je suis Charlie」(私はシャルリー・エブド)という抗議プラカードなどを掲げ、「言論の自由」の擁護に立ち上がった。

②5年後、 同テロ事件をめぐる公判が今年9月2日に始まった。「シャルリー・エブド」は9月2日付の特別号で、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を1面に再掲載し「全てはこのために」と見出しを付け、「われわれは絶対に屈服しない」と改めて決意表明した。マクロン大統領は1日、訪問先のレバノンの記者会見で「フランスには冒涜する自由がある。報道の自由がある」と述べた。

③パリ市内の路上で25日、大型刃物をもった男が路上にいた2人を刺傷し、重傷を負わせるといった事件が発生した。現場は2015年1月に銃撃事件が起きたシャルリエブドの旧本社近くで、当局は7人の容疑者を逮捕し、テロ事件として捜査を始めた。警察当局によると、実行犯のパキスタン出身の男(18)はシャルリー・エブドのテロ事件と関連があると受け取られている。

①、②、そして③でもフランス国民にとって主要テーマは「自由」だった。如何にイスラム系テロから「言論の自由」を守るかが問題となった。フランス国民の「言論の自由」への一途な献身には涙を禁じ得ないが、当方は5年前から考えていたことがある。

「シャルリー・エブド誌のイスラム教開祖ムハンマドの風刺は芸術ではなく、イスラム教徒の信仰心を中傷する冒涜にすぎない。われわれが命の代価を払っても守るべき『自由』とは一致しない」という叫び声がどうしてフランス社会で高まらないのかだ。

オランド大統領も後継者のマクロン大統領も、「われわれは言論の自由を死守する」と主張し、後者は「冒涜する自由もある」と叫んでしまった。

多くのフランス事情通は、「これがフランスだ。フランス人は革命で獲得した自由を如何なる代価を払ってでも守ることが使命と考えている」と説明する。

中世の欧州はカトリック教会の固陋な世界観に覆われ、社会では絶対主義に対する矛盾と閉塞感に包まれていた。啓蒙思想の流れが大きく影響を与えたこともあり、市民階級の意識が高まった時代がくると、封建的支配階級を打破し、市民の自由、平等、解放を前面に民主主義を唱えて、フランス革命が起きた。自由はその貴重な成果だった。だからその自由を再び奪われてはならない、といった一種の強迫感がフランス全般にその後、定着していったというのだ。

フランス国民は「自由には制限が伴う」と口に出すことに戸惑いを感じる。「言論の自由」はフランス人のアイデンティティになっているからだ。「無制限の自由は存在しない」と健気に口に出せば、大多数のフランス国民からブーイングを受ける。フランスでは「自由には制限がある」と公言できる「自由」がないのだ。大げさに言えば、フランス革命(1789年〜99年)から200年以上経過したが、フランス国民はその革命がもたらした「自由」の拘束から自由ではないのだ。

フランス革命は君主、貴族など支配階級を中心とした固陋で頑迷な絶対主義社会を打破し、人間の自由、平等、解放を目指した革命だった。その結果、当然だが、その後の民主主義は「神の干渉がない民主主義」となっていった。その思想の流れから無神論的共産主義が台頭していったわけだ。

ロシア革命後、共産主義世界で人権は蹂躙され、無数の人々が粛正されていった。人権を標榜しながら、共産主義の世界では人権は蹂躙されていった。なぜならば「(神がいなければ)全ては許される」(Tout est pardonne) からだ。一方、革命の発祥地、フランスでは「宗教と政治」の完全な分離(ライシテ)を実施することで、神への信仰をかろうじて死守できたのではないか。

「シャルリー・エブド」誌がイスラム教祖を風刺した時、「それは馬鹿げたことであり、他の世界観に生きる人々への冒涜だ。芸術でもない」といった声が社会で高まっていったならば、悲惨なテロ事件はひょっとしたら起きなかったかもしれない。

オーストリア元国民議会議長のアンドレアス・コール氏は当時、「わが国であのような風刺画が出せば、許可されないだろう」と述べていた。「シャルリー・エブド」誌の風刺画が「言論の自由」の名目でまかり通るのは欧州ではひょっとしたらフランスだけではないか。

フランス7月革命を主題としたドラクロワの『民衆を導く自由の女神』(Wikipedia)

フランス国民は革命がもたらした自由に拘束され、そこから自らを解放できないでいる。フランス国民は“第2のフランス革命”を必要としている。「神の干渉を認める民主主義」の確立だ。

フランス国民が革命の成果として大事に堅持してきた「自由」は人道主義的な民主国家の建設を目指したが、啓蒙主義、無神論の影響を色濃くして、「神なき共産主義社会」の誕生を許した。歴史上、最も非人道主義の無神論国家が生まれてしまったのだ。

もちろん、その責任はフランス革命だけにあるのではないだろう。同時期に進展していた宗教改革が宗派の壁を越えることができずに、世界を主導できる精神的覚醒運動に発展できなかったことが大きいからだ。キリスト教がその役割を果たせない状況の中で、共産主義はスクスクと成長していったわけだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年9月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。