手元に一冊の本がある。16年前に出版された、テレビでお馴染みの政治評論家・田崎史郎による『梶山静六:死に顔に笑みをたたえて』である。
首相の菅義偉が梶山静六・元官房長官を政治の師と慕っていることはよく知られているが、意外にもその梶山の実像を語る資料は少ない。没後20年が経ち、梶山を知る人も少なくなってきた。菅義偉の人物研究として一読したところ、本書後半で新人代議士の菅の名前が数回登場する。
しかし本書は、昭和から平成にかけて田中角栄から竹下登を経て小渕恵三が領袖を務めた派閥の変遷と、梶山静六の政治家人生を描いた政治史である。それでもなお本書を紹介するのは、政治家・梶山静六の人生を振り返ったときに、政治家・菅義偉との多くの共通点が見つかったからである。
両者の関係は、結果として師匠と弟子の関係を超越したというのが評者の一読後の実感である。それは天下を取る目前で悲運の死を遂げた安倍晋太郎と、父の遺志を受け継いで総理の座を掴んだ安倍晋三の親子関係にも匹敵する、政治的な親子2代に渡る天下統一物語と言っても良い。
1. 「オヤジ」を総理総裁へ
梶山は竹下登を、菅は梶山を総理総裁に押し上げるために懸命に働いた。2人に共通するのは、その熱量と決起を促す言葉の激烈さである。
「立つのか立たないのか、はっきりしてくれ。立たないんなら立たないでいい。そんなら人を惑わすから、代議士を辞めて島根に帰ってくれ」。
梶山は態度を明らかにしようとしない竹下に憤慨し、胸元をえぐるような攻撃的な言葉を浴びせかける。
対する菅は、1998年の参院選大敗で橋本龍太郎首相の辞任が分かると、即座に梶山の下に駆けつけ「立たなきゃ評論家じゃないですか。政治家は評論家じゃないんです」と、今度は梶山を突き上げた。下から背中を押された竹下と梶山は、その後一世一代の大勝負に打って出る。
2. 総理と官房長官の出会い
菅が7年9ヶ月女房役として仕えた安倍前首相との出会いは、菅自身が語っているように拉致問題であった。菅が2回生当時、安倍は3期目で官房副長官。北朝鮮の万景峰号入港禁止に向けて互いを認め合い、菅は安倍を将来の総理にするのだと誓った。
一方、梶山が仕えた橋本との出会いは遺骨収集事業であったという。旧日本軍人である梶山は1969年に初当選した後、厚生政務次官を退任した橋本を訪ね、海に沈んだ旧日本海軍の潜水艦を引き揚げ遺骨を回収するよう懇請している。梶山の熱意を意気に感じた橋本は、大蔵省と掛け合い予算を確保し遺骨収集に尽力した。
「梶サンは、遺骨収集を自慢するわけではなかった。彼の選挙にも関係がなかった。しかし、10歳以上も年が違う僕に頭を下げ、厚生省にも頼んで回ったことに感激した」。
梶山の死後に橋本はこう振り返り、2人が官邸で共に働く前から強い信頼関係で結ばれていたことを明かした。拉致と遺骨収集は、どちらも選挙向けのテーマではない。しかし、損得勘定を抜きにした国家と国民のあるべき姿を問う骨太の課題で志を共有したことは、強固な信頼関係構築の基礎ともなった。
3. 前例打破
「国民にとっての当たり前」を旗印に、菅は不合理な前例打破に取り組むことを国民に誓った。官房長官時代の菅は、2016年に東京は元赤坂の迎賓館通年公開に踏み切った。当時大きく報道され、貴重な文化施設の一般開放は多くの国民から歓迎された。
一方すっかり定着したことで国民からは忘れられているが、大相撲千秋楽での総理大臣賜杯を総理本人が行うよう橋本に進言したのは梶山だった。それまで文部政務次官の仕事だったものを、「大相撲は国技であり、初場所は東京でやっている」との理由で前例を打破したのだ。
2001年に優勝した貴乃花に「痛みに耐えてよく頑張った。感動した」と絶叫し、国民の喝采を浴びた小泉純一郎。梶山の意図を越えて、内閣支持率向上の秘密兵器として機能した。
4. 国難が呼び戻した大乱世の梶山と菅
菅は僅か1年あまり前の安倍内閣改造で、河井克行法務大臣と菅原一秀経産大臣の失脚を機に官邸内での影響力を失ったと噂された。年明けのコロナ禍でも、政府の重大決定に関与できなかったと報道されたことは記憶に新しい。しかし、安倍官邸のちぐはぐな対応と安倍自身の健康問題という2重苦が、一時はどん底に落ちた菅をトップに押し上げる原動力となったわけだ。
梶山も同様に、官房長官を辞した後は自社さ派との路線対立に敗れた。しかも派閥内では、ライバルの野中広務に主導権を奪われ、先を見通せない時期を過ごした。そうしたころにアジアで発生した通貨危機が世界に広がり、国内では大手銀行や証券会社が続々と破綻。金融危機に日本中が混乱した。政府がこの間対応に苦慮する反面、梶山はこの金融危機にいち早く気づき打開策を発表し続けることで潮目が変わった。時代が、梶山の登板を待望するようになった。
5. 梶山と小此木家の関係
最後に、梶山と菅を結びつけた2人の人物に焦点を当てたい。横浜市西区の久保山墓地に眠るその人の名は小此木彦三郎。菅がかつて仕えた代議士である。そして、その後継となり菅の長年に渡る同志・小此木八郎だ。梶山と彦三郎は初当選同期。お互いを「彦さん」、「梶さん」と呼び合う仲で、梶山曰く「国会での1番の親友は小此木さん」だ。梶山が落選したときには、梶山が退去した議員宿舎の部屋を自ら借り、自分は選挙区の横浜から通勤し続けた。梶山に再度国会に戻ってくるよう激励したのである。
その彦三郎が亡くなった後を継いだ国家公安委員会委員長の八郎は、幼い頃から父のそばで働く菅をよく知る人物だ。1998年に世論の注目を浴びた国鉄長期債務処理問題で、その法案に梶山は党の総務会で反対の論陣を張った。この動きに呼応して総務会に乗り込んだ若手が菅と八郎であった。
かつて仕えた代議士とその息子、そして親友だった梶山との関係で育まれた深い縁。そして、国鉄長期債務処理問題を通じて世代を超えて共に闘った記憶は、菅が間近に政治家・梶山静六の生き様に触れ、後に決起を促す決定的な契機となったに違いない。
お互い地方議員出身でたたき上げの梶山と菅。2人がそれぞれ天下取りの一大決戦に挑んだのは、くしくも72歳を迎える年であった。総裁の座に手が届かなかった梶山に対して、圧勝した菅。明暗が分かれた2人だが、菅も第1次安倍政権が崩壊する過程を閣内で目の当たりにし、2009年には自民党の選挙対策の実質的な責任者として民主党に大惨敗し、挫折を繰り返した。
しかし、「戦場では一度倒れたらおしまいだが、政治では再び立ち上がるために倒れる」とのフランス革命期の政治家タレーランの言葉を好む菅は、そのたびに立ち上がり捲土重来を期した。総裁選挙の演説で残した「私の屍を乗り越えて日本の将来を築き上げてほしい」との梶山の「政治的な遺言」を胸に刻んだ菅は、首相として師の果たせなかった想いを実現できるだろうか。
(文中敬称略)
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小林 武史 国会議員秘書
カイロ・アメリカン大学国際関係論修士過程修了。2005年法大卒(剛柔流空手道部第42代で、第10代菅義偉氏の後輩)。