吉村府知事はコロナ禍で民主主義を体現した数少ない政治家だ

新型コロナ禍における吉村府知事の言動には賛否両論があります。私自身、全ての対応が良かったとは全く思いませんし、日頃から吉村府知事を支持しているわけではありません。

吉村知事(本人ツイッターより:編集部)

しかし、この新型コロナ禍において民主主義を体現した政治リーダーは誰かと問われれば、最も該当するのは吉村府知事だと思います。その理由を先取りして言えば「空気を読むのではなく、明確な掟の作成を試みた」という点に尽きます。

さて、そもそも民主主義とは何でしょうか。分かるようで分からない民主主義を理解する一助として、東京大学法学部長、明治学院大学学長を歴任した福田歓一氏による次の主張が役立つと思います。

ここで民主主義という言い方をしておりますのは、デモクラシーが単なる社会体制や政治機構にとどまらず、それに先立って、運動であり、そのイデオロギーであり、また目標であるからであります。

とくにそれを近代民主主義という言葉で呼びましたのは、これは古代デモクラシーに対する用法であります。古代デモクラシーについては、民主主義という言い方は適当ではない。 運動として、その原理、イデオロギーとしての用法は、むしろ近代にはじまったものだからであります。(中略)

古代ギリシアにおけるデモクラティアという言葉は、文字どおりデモス=民衆の支配を意味するわけでありまして、それはポリス=ギリシアの都市国家のいくつかの政治形態の一つでありました。つまり、そこではポリスという共同体の存在が前提であったわけでありまして、この点が、まず近代民主主義とたいへん違っております。

と申しますのは、近代民主主義はあとで申しますように、事実上、主権国家・国民国家というものを単位としてつくられるのが普通でありますけれども、理論上はそもそもそういう政治社会自体をわれわれが構成したものと考える、つまりはじめから与えられた共同体を前提するのでなくて、そもそも社会を構成する原理という徹底した性格をもつからであります。(福田歓一著『近代民主主義とその展望』岩波新書、1977年)

古代ギリシアでは、すでに共同体があって、その共同体を統治する方法の一つとして古代デモクラシーがあったというわけです。

一方、民主主義は人々に行動を促す価値観という性格を持っています。この価値観があってこそ、人々は掟を作り社会を構成するのです。共同体が最初からあるのではなく、自分たちで日々、能動的に作っていくという考え方です。

たとえば、大抵のPTAは古代デモクラシー的ですが民主主義の精神があるとは言えません。PTAでは多くの人が議論をして物事を決めるため、一見すると民主主義的な活動のように思えます。しかし、黒川祥子氏の著書『PTA不要論』(新潮新書)で不毛なPTAの実情が描かれているように、その実態は決して能動的な活動とは言えません。最初からPTAという共同体が前提として存在しているため、仕方がなく参加しているといったケースが大概でしょう。一部の偉い人で勝手に運営してくれといったところが本音だと思います。ここに、民主主義の精神は見られないのです。

それでは、新型コロナ禍の日本はどうでしょうか。国民を代表する政治リーダーたちが、何となく空気を読みながら曖昧な言動を繰り返していった様子は、どう解釈できるでしょうか。

私は新著『空気が支配する国』(新潮新書)にて、空気を「曖昧な掟」と定義しました。明確な掟があれば、それに従えばよいので空気を読む必要はない。裏を返せば、明確な掟が不足するからこそ、何となく読んだ空気を掟として行動する。だから、空気は曖昧な掟です。

さて、曖昧であっても空気は掟です。曖昧な言動を政治リーダーが繰り返すことで、なんとなくの空気を醸成して人々を拘束していった新型コロナ禍を考えるに、私たちは政治リーダーを中心とし、みんなで掟を決めていったように思えます。

しかし、そこに能動性は見られません。もっと大胆に言えば、誰も掟を決めようとしなくても、勝手に生じてしまうのが空気という名の掟です。空気という名の掟を皆で探り、結果として全員が掟の作成に関わることと、民主主義の精神を胸に宿し、積極的に掟を作っていくこととの間には、似ているようでも天と地ほどの差があります。空気を気にするあまり、何も能動的に決定しない政治リーダーは、民主主義の精神を体現しているとは言えないのです。

こうした状況のなかで、数少ない例外的な存在だったのが吉村府知事です。自粛要請/解除の基準を定めた大阪モデルを策定し、そのとおりに行動をしています。空気とは別の掟を設定したわけです。しかもそれをできるだけ言語化することに努めました。これは空気による支配とは逆の精神です。

空気にはメリットもあります。東日本大震災や新型コロナ禍にて、厳しい法規制をすることなく一定の秩序が保たれたのは、勝手に生じた空気のおかげだと見なせます。何が何でも空気が悪いとは思いません。

しかし、敗戦や原発事故が象徴的ですが、空気の暴走が日本国に極めて甚大な打撃を与えてきたことも忘れてはなりません。空気による統治は便利であるものの、乱用すると手痛いしっぺ返しを受けます。

まだ、新型コロナ禍は続きそうです。一方、その姿が少しずつ分かってきた今、掟を決めるための判断材料が増えてきました。だから、もうそろそろ空気を掟とするのではなく、民主主義の精神を発揮し能動的に掟を決めていくべきではないでしょうか。歴史が証明するように、空気が暴走してからでは遅いのです。