態度や姿勢の問題なのか?
アメリカ大統領選の前後から、日本でもリベラルについて語る論者が増えてきた。
例えば弁護士の倉持麟太郎氏は「リベラルの敵はリベラルにあり」を出版し、日本のリベラルを痛烈に批判している。
倉持氏に限ったことではないが、こうしたリベラル批判には必ずといってよいほどリベラルの「上から目線」への批判や、反省を求める声があがる。
日本の「自称リベラル」たちはなぜ「上から目線」をやめられないのか…その意外なワケ(倉持 麟太郎) | マネー現代 | 講談社(1/7) (ismedia.jp)
「リベラルは頭が良く正しいことを言っているが、それゆえどうしても他人を見下した態度や姿勢をとってしまう」「リベラルは頭が良い少数派であり、だから多数派の気持ちがわからない。インテリの悲劇である」
といったところだろうか。
まるでリベラルが態度や姿勢を改めれば多数派から支持を得られるといわんばかりだ。
しかし、どうだろうか。リベラルの問題は態度や姿勢の問題なのだろうか。保守・反リベラルは、リベラルの「正しさ」を内心理解しているが、態度や姿勢ゆえにその「正しさ」を支持していないのだろうか。そんなことあるだろうか。
リベラルの主張が支持されないのは素朴単純に説得力がないだけではないだろうか。
説得力のある主張ならば低姿勢でなくとも「あの人は堂々としている」「自信に満ちあふれている」と評価されるだけではないか。
個人を起点に考えない日本のリベラル
日本のリベラルの問題は、態度や姿勢ではなく、その思考である。
リベラルは個人を起点にリベラルを考えない。彼らは社会を起点にリベラルを考える。「多文化共生社会」とか「多様性を尊重する社会」とか「リベラルな社会」を設定しそこから個人を考える。
リベラルは「リベラルな社会」に望ましい個人を考え、他人にそれを強制する。個人をリベラルが一方的に設定した枠組み・型にはめ込もうとする。要するに「リベラルの強制」を行う。
そして「リベラルの強制」とは社会を起点にリベラルを思考した結果であり、これを改めない限りリベラルへの批判がなくなることはないだろう。
だから「上から目線」という態度や姿勢を改めれば良いという考えは、的外れと言わざるを得ない。
上ではなく隅…ただの迷惑オタク
リベラルの的外れはこれだけではない。リベラルの社会的位置への評価についてでもある。
リベラルは陰に陽に「自分達は頭が良く社会の上層に位置するがそれゆえ少数派になってしまう」と言うが、彼らの社会的位置は本当に「上」なのだろうか。
確かに華やかな経歴の持ち主もいるがリベラル全員がそうだとは限らないし、仮に社会の上層にいるとしても説得力のない主張をする者を「上」と評価するのは適切ではない。
では「上」ではなければどこだろうか。批判を覚悟でいえばやはり「隅」ではないか。
日本のリベラルの社会的位置は「上」ではなく「隅」である。「隅」にいるから少数派で視野も狭いのである。
社会の片隅にいるインテリがリベラル、いや知識が偏向しているだけだからインテリというよりオタクであり、他人に迷惑をかけるオタクだから、「迷惑オタク」という表現がふさわしい。
日本のリベラルの正体は「頭がよく社会の上層に位置し、それゆえ他人に冷たい態度や姿勢をついつい取ってしまうちょっと困ったインテリ」ではなく「知識が異様に偏り視野も狭く、それゆえ不当に他人を攻撃する迷惑オタク」と言うほうが正確ではないだろうか。
そして今、必要なのは、この「リベラルを名乗る隅にいる迷惑オタク」を戦略的に無視することである。迷惑オタクの相手をしたってしょうがあるまい。時間の無駄である。