(公益財団法人食の安全・安心財団理事長、東京大学名誉教授 唐木英明)
感染症の対処法には医療とリスク管理の2種類がある。医療には「人命は地球より重い」という理念があり、だからこそ患者や家族から信頼される。
他方、リスク管理の理念は、対策が別のリスクを生むことを防ぎ、すべてのリスクの総和を最小にする「リスク最適化」である。リスク管理も「人命は地球より重い」という理念に賛同するが、これをそのまま政策に取り入れようとすれば、多くの犠牲者を出している自動車は禁止しなくてはならない。対策を実施しながら自動車を使い続ける道を探すのがその役割である。
この両者が協力することでリスク管理が成功するのだが、新型コロナについては医療偏重に陥り、社会生活と経済が犠牲にされている。
新型コロナの特徴は武漢での事例から早期に分かっていた。これをまとめた論文(※1)によれば、感染者の8割が軽症か無症状で、高齢者と基礎疾患がある人は致死率が高く、小児の感染者は1%以下である。
このような事実に基づいて東京都医師会が2月に発表した指針では、新型コロナの感染力と重症度はインフルエンザと同程度であり、感染しても多くは症状が出ないか、少し長めの呼吸器症状で完治し、肺炎になった場合の治療法は他の肺炎治療と大きくは変わらず、予防方法も標準的な感染症予防策で十分としている。また日本では欧米に比べて感染者と死者が極めて少なく、欧米のような厳重な対策は不要であることも明らかになった。
ところが国はインフルとはけた違いに厳しい対策を実施した。対策の決定と国民への情報提供に大きな役割を果たしたのは国が設置した専門家会議で、そのメンバーは医療関係者が中心だった。メンバーと関係者は連日テレビで3密防止、接触の8割減少などを呼びかけ、このままでは40万人の死者が出るなど仮想の数字で恐怖感を煽り、緊急事態宣言の発出を求めた。NHKは日々の感染者数を大きく報道して恐怖を拡大した。
国民は外出自粛と営業自粛という過剰な対策に協力せざるを得ず、恐怖感から偏見、差別、“自粛警察”など多くの弊害が生まれ、経済は重大な被害を受けた。この状況を見て国は専門家会議を廃止して感染症対策分科会を設置したが実態は変わらず、観光と外食産業の苦境を救うために始まったGoToキャンペーンは感染対策のためとして一時停止に追い込まれた。
感染症は危険性の程度で1類から5類に分類され、1類にはペストやエボラ出血熱、2類には中東呼吸器症候群(MERS)、重症急性呼吸器症候群(SARS)、結核などが含まれる。2類感染症に感染した疑いがある人には健康診断を受けさせ、感染が確定したときだけでなく、疑いがあるときでも入院させることができる。入院先は感染症指定医療機関であり、検査と入院費用は国費である。他方、5類にはインフルエンザ、風疹、後天性免疫不全症候群(AIDS/HIV感染症)などが含まれ、これらは診断した医師が患者の発生を保健所に届け出るだけである。
そもそも人口当たりのベッド数が世界最多の日本で医療崩壊が起こる理由は少数の指定医療機関に軽症、無症状も含めて感染者全員入院させるためだ。それでも指定医療機関のベッドは全国で半分以上空いているのだが、感染者が急増した地域の特定の指定医療機関だけが医療崩壊状態になる。介護や清掃や調理関係者などの支援要員は指定医療機関に入ることができず、その業務まで肩代わりする看護師の負担が極めて大きくなっている。
局地的な危機は全体の協力で防ぐことができるのだが、政府も分科会も医師会も問題解決の努力を放棄し、その解決を国民の自粛に求め続けている。2類扱いの被害は保健所にも及び、感染経路の調査や感染者の入院先の選定などに忙殺され、通常業務が困難になっている。
2類扱いは新型コロナの実態に合わず、その弊害は極めて大きい。安倍首相は8月の退任表明会見でインフルエンザと同じ5類扱いに変更する方針を発表し、メディアは2類と5類の解説を始めた。これで医療、社会、経済の多くの被害をなくすことができ、2類扱いに要した莫大な経費は、感染防止ではなく高リスク者の感染防止と救命に集中することができ、ずっと多くの人命救助が期待された。
ところがここに来て、厚労省は来年1月で期限を迎える2類扱いを1年延長する方針を決めたと報じられている。そうであればその運用を大幅に柔軟化して欠点を排除することで、天災に輪をかける人災を軽減すべきである。
※1 JAMA online 2020.02.24 doi:10.1001/jama.2020.2648
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唐木 英明(からき・ひであき)公益財団法人食の安全・安心財団理事長、東京大学名誉教授
1964年東京大学農学部獣医学科卒。農学博士、獣医師。東京大学農学部助手、同助教授、テキサス大学ダラス医学研究所研究員などを経て、東京大学農学部教授、東京大学アイソトープ総合センターセンター長などを務めた。2008〜11年日本学術会議副会長。11〜13年倉敷芸術科学大学学長。著書「不安の構造―リスクを管理する方法」「牛肉安全宣言―BSE問題は終わった」など。