日本を愛した「好々爺」
まだ現実が受け止められていませんが、留学中も、帰国後も大変お世話になったハーバード大名誉教授のエズラ・ボーゲル先生が亡くなられたそうです。(後述するボーゲル塾の現在の幹事で、ボストンに留学している経産省の後輩から教えて頂きました。有難うございます。)
ジャパン・アズ・ナンバーワンの著者として日本人には馴染みの深い方ですが、個人的には、そうした著名人としてより、何より、日本人以上に武士らしい思いやりの心の持ち主で、失礼を承知で書けば、日本を愛してくれた1人の「好々爺」としてのボーゲル先生に、心からの哀悼の意を表したいと思います。
先生との思い出は、色々と尽きないのですが、まずは何といっても、ボストンでの「ハーバード松下村塾:通称ボーゲル塾」の立ち上げの際、出会いに関してです。
「日本はこのままで良いのか」
2001年からハーバード大学行政大学院(ケネディスクール)に留学していた私は、もちろんご高名でいらっしゃるボーゲル先生が日本の政治外交に関しての講座を開いていたことは知っていましたが(当時は、川島元外務次官との合同講座でした)、「わざわざアメリカに留学して日本のこと学ぶ必要もなかろう」と、先生の講義は受講せずに1年を過ごしていました。
2002年の後半の頃だったと思いますが、知人経由で、「ボーゲル先生やサバティカルでボストンにいる五百旗頭真先生、DCにおられる船橋洋一先生が、日本の将来を憂いて、ボストン近辺で面白そうな日本人を何人か集めて会をやる、という意向を示している。今、メンバーをピックアップしていて朝比奈君も是非、ということになってるので、一度来ないか」というお誘いを頂いて、確か、五百旗頭先生が滞在されていたライシャワーハウスだったと記憶していますが、そこでお会いしたのが最初の出会いでした。
「日本はこのままで良いのか。大丈夫なのか」と、日本人以上に、そして、あたかも維新の志士のように、口調は柔らかながら舌鋒するどく話される先生に衝撃を受けたことを思い出します。
実は、お会いするまで、もちろん、有名なご著書は知っていたのですが、ちゃんと読んだことがなく(汗)、慌てて取り寄せて読み、それなりに理論武装してお会いしたのですが、たとえて言うなら、左からパンチが飛んでくるかと思って身構えていたら、全然違う右の角度からガツンと殴られたようなそんな衝撃でした。
同じように衝撃を受けた、ビジネススクールの砂川さん、公衆衛生大学院の内田さん、ケネディスクール仲間の故杉村太郎さんや草鹿さんなど、今も尊敬し語らっている多数の仲間と、喧々諤々、ある意味で留学の授業以上に色々と勉強したり議論したりしました。日本をどうするか、その中で自分たちはどう生きるべきなのか、を青臭く、時に理論的に語り合う場を先生は提供してくれ、それは時に、先生のご自宅であることもありました。
会の名を、ハーバード松下村塾にしたのもその立ち上げ時です。私は、その際、生意気にも、「これは、ボーゲル先生に教えを乞う場ではなく、我々自身が先生と一緒になって考える場で、いわば「ハーバード亀山社中だ!」と主張したのですが、大勢にはかなわず「ハーバード松下村塾」となりました。
結果として見ると、先生の熱量とお立場的には、確かに「ハーバード松下村塾」だった、と思える結論でした。今思うと、その時の残り火?で、「青山社中」が出来たのかもしれません。
リーダーシップの真の意味
ある時、我々が「日本を立て直す上で、日本の弱点を整理しました。やはり現状を分析し、それを克服する解決策を考えて行くべきです」ということで、先生の前で、真面目な学生らしく、確か4つの分析を示したことがありました。
それらは、大雑把に書けば、
①日本は金融の工夫が足りなかった。バブルの頃は世界のトップバンクは日本の銀行ばかりだとあぐらをかいていたが、金融商品その他で工夫がたりず、能力的に欧米の銀行の後塵を拝することになった
②日本では民主主義がきちんと育たなかった。メディアに乗せられて右往左往する「観客民主主義」で、自ら考えて主体的に社会にコミットする民主主義ではない状態だ
③日本はグローバル化対応が遅れた。英語が使える人・エリートを増やすことが出来ず、世界のインナーに入れないことになってしまった
④日本は情報化、すなわちインターネットなどを軽視してIT化が遅れた
というもので、なかなか良く整理された分析だとの自負がありました。
ただ、先生は、一言「自分が、ジャパン・アズ・ナンバーワンを書いた頃、日本が世界の頂点に近いところにいた頃、①~④は、あったかな。民主主義もグローバル化も欧米より遅れていたかもしれないけど、でも元気があって伸びていたよ。決して間違いではないけど、それだけかな」という趣旨のことをおっしゃり、またも違う角度から殴られた気がしました。
そこからだったでしょうか。ケネディスクールで教えているリーダーシップという学問の真の意味が見えて来たのは。必修で仕方なくとっていた講義を見る目が変わってきたのは。
私は、リーダーシップの訳語が「指導者」となっているのが誤りだということで「始動者」であるべきだと唱えていますが、幕末維新も、戦後の高度成長も、あくまで「始動者」があって、その上に適切な「戦略」が乗っかっているという当たり前のことに、ハッと気づかされました。
留学生たちを中心に、「真面目な」「優秀な」日本人は多数いて、安全な場所、安全な組織の陰から、あれやこれや言ってはいるのですが、戦略だけあっても、始動者、すなわちdoerがいないと、何も動かないんですよね。
先生は、私の解釈では、そのことをとても言いたかったんだと思い、自ら何が出来るかを考え、霞が関からの留学仲間に働きかけ(時にシカゴ、時にNY、時にDC、果てはロンドンまで公務員留学仲間に会いに行きました)、新しい霞ヶ関を創る若手の会の原型を議論して作りました。日本を立て直すために、霞が関の中からの決起が必要なのではないかと。
ボーゲル先生は、この新しい霞ヶ関を創る若手の会の活動をとても評価してくださり、むしろ、先生との距離は、帰国後に縮まった気がします。お送りした著書も読んでくださったようで、何かと励ましてくださいました。
「面白いエリートが減った」
その後、私は霞が関・経産省を離れて青山社中を立ち上げるわけですが、多くの日本の同僚や先輩後輩たちが「せっかく官僚なのに辞めるのはもったいない」「辞めて官僚の地位を失ったら誰にも相手にされなくなるし、食えなくなるのでは」といった心配をしてくださる中、激賞に近い評価をしてくださり、ボーゲル塾のメーリングリストの中で、青山社中リーダー塾の宣伝をしてくださったり、2013年にボストンに行った際は、当時のボーゲル塾プレゼンする機会までくださいました。(そこからリーダー塾生になった者もいます)
2018年に、私がケネディスクールのクラスメイト代表(2003年卒/MPA2コース)で現地でプレゼンする機会を頂いた際には我がことのように喜んでくださり、教授たちしか使えないファカルティ・クラブで、日本研究をしているアメリカ人を呼んでくださり、ランチをご馳走してくださいつつ、日米のパイプの重要性を語ってくださったことを懐かしく思い出します。
青山社中のことも何かと気にかけてくださり、訪日時に、リーダー塾生向けに講義してくださったり、別の訪日時には青山社中フォーラムでご講演もしてくださいました。「私は、日本の〇〇新聞社で講演する際は〇百万円もらっているので、心配しないで大丈夫。君のところからはもらえない」といずれも謝礼辞退でやってくださいました。有難かったです。
印象的なのは、特にリーダー塾生向けに講演して頂いた際です。2時間の講義の中で20回くらいあったでしょうか。今の日本人には「ガッツ」が足りない、というご発言がありました。中曽根康弘さん、盛田昭夫さんなど、「面白い日本人」を語って頂くのが最高でした。最後まで、「人」にこだわり、「人」を大切にされた方でした。日本人以上に、義理人情を理解し、体現されていた方だと思います。
最近は、日本からの留学生は昔に比べて増えたけど、「面白いエリートが減った」ともおっしゃっていました。手前味噌になりますが、おそらく「何かやらかしそう?」という意味で、先生いわく、3人だけ印象に残っている日本人の「ガッツ」ある留学生がいて、その1人にしていただいたのは、人生の宝です。(ちなみに、そのうち1人の面白い男・後輩は、HLABなる面白い組織を立ち上げた小林君です。最近、下北沢に何か凄い施設を作ったみたいで、近々遊びに行く予定です。)
最後の著作は本望だったのでは
ボーゲル先生は、日本では日本研究の第一人者として有名ですが、実はアメリカではむしろ、中国研究でも有名です。 中国語もペラペラで、上海で頑張っている役所同期で游仁堂CEOの金田君に言われて日中リーダー会議という素晴らしい集まりの立ち上げをお手伝いしていた際に、先生にスピーチ動画をお願いしたら、スピーチの順が、英語⇒中国語⇒日本語で、ちょっと悔しかった記憶があります。
上記のリーダー塾の講義でも鄧小平について語られていましたが、日本を見る際も中国を見る際も、時代を創る人への眼差しを常に忘れない方でした。日中関係の将来もいつも憂えておられ、そのパイプ作りのためには、労力を惜しまない方で、同会議立ち上げの際にも知り合いを紹介してくださったりしました。
別のボーゲル先生の来日の機会に、私のアレンジで、自民党の岸田派の若手国会議員2名と、上記の金田君などと食事をしたことがありましたが、下田会議なども例に出し、交流の機会・人的パイプの重要性を説いておられたのが印象的です。
不肖の弟子で未読なのですが、おそらく最後の著作が1500年を俯瞰して書かれた「日中関係史」でいらしたのは、ご本人としては本望でいらしたのではないかと思います。
安らかにお眠りください。本当に、本当に有難うございました。