政策提言委員・元公安調査庁金沢公安調査事務所長 藤谷 昌敏
アント・グループの新規株式公開(IPO)を控えていた2020年10月、馬雲(ジャック・マー)氏は上海の金融会議で「時代錯誤的な政府規制が中国のイノベーションを窒息死させる」と激しく政府を批判した。その後11月に入り、ジャック・マーが画策していた史上空前の350億ドル(約3兆6000億円)規模となるはずだったアントIPOは、規制強化を進めていた中国政府により、上場直前で突然中止された。アントは、2014年、中国最大のeコマース・アリババの子会社として設立され、電子マネーアリペイを発行し、その企業価値は、約1500億ドル(約16兆円)にもなると言われた。
12月14日には、中国の独占禁止法の執行機関である国家市場監督管理総局(市場監管総局)がネットサービス大手の阿里巴巴集団(アリババ)、騰訊(テンセント)、物流大手の順豊集団のそれぞれの子会社が独占禁止法に違反したとして、3社に対し50万元(約794万円)の罰金を科したと発表した。3社は過去に同業他社のM&A(合併・買収)を実行した際、独禁法が定める事業者集中に関する事前の届け出を出していなかった。
さらに12月18日、アント・グループは同社の決済システムであるアリペイを通じて銀行に預金ができる個人向けの仲介サービスを突如中止すると発表した。同社は、「オンライン預金サービスに関する最近の規制上の要件に従って、アリペイからオンライン預金商品を自主的に取り除いた」と説明したが、事実上、規制当局の求めに応じた措置とみられる。アリペイの銀行預金の仲介サービスは、利用者が金利を比べてどの銀行を利用するかを決めることができる。中国管理当局は、中小銀行が大手銀行との金利競争によって利益が減少し、金融システム全体が不安定化することを懸念したのだ。その後12月24日、中国政府は、アリババが取引先の企業に対して、アリババ以外とは取引をしないように求める行為が独占禁止法に違反した疑いがあるとして、調査を始めたと発表した。中国政府による巨大ネット企業への支配が、一層、強化されたのだ。
共産党が予想していなかったIT産業の巨大化
中国の改革開放政策は、鄧小平の「先富論」(豊かになれる条件を持った地域、人々から豊かになればいい)と「抓大放小(大をつかみ小を放つ)」(大企業は国家が掌握し、小企業は市場に任せる)という二つの方針によって進められてきた。中国石油化工(シノペック、SINOPEC)、中国石油天然ガス集団(China National Petroleum Corporation)、国家電網(State Grid Corporation of China)などは、国家の重要な産業と見なされて国有企業として残された。こうした国家の基幹産業に対してIT企業などは民間に任され、自由な経済活動が認められた。しかし、その後のIT関連技術の発達や新しいビジネスモデルの開発によって、IT産業は予想を超える世界的な巨大産業に成長した。アントが信用スコアリングを行って融資の判断が行えるのは、利用者数10億人以上といわれるアリペイがもたらすビッグデータがあるからだ。現在の中国では、民間企業が国内総生産(GDP)の6割を占め、政府税収の5割、都市部雇用の8割を生み出している。こうした巨大産業の影響力拡大という現状を踏まえ、中国政府は、民営企業に対する統制強化と国有企業化などを次々に推し進めている。
強化された民営企業統制
中国では、企業内に党委員会を設置することが事実上、義務付けられており、国有企業、民営企業、外資系企業、合弁企業など様々な企業内で組織化されている。党委員会はこれまで民営企業の意思決定には、ほとんど影響を及ぼしてこなかった。中国共産党は、「統一戦線工作」を一段と広げることで、民間部門とその従業員に対する指導力と統制を強化することを目指してきた。「統一戦線工作」とは、共産党に属さない組織や団体に、党が掲げる最優先の政策目標と党の支配への支持を求める取り組みを指す。党中央弁公庁が2020年9月15日に公表した指針によれば、「共産党は統一戦線に対し、民間部門における政府の指導的役割を向上させるよう指示する。統一戦線は党の影響力と統制を国内外で強めるための統括組織であり、民間企業の規模が大きくなって、経営者の価値観と利益が多様化している現在、その課題とリスクに対応し、党の統制を強化しなければならない」としている。これは、中国共産党が今まで民営企業の意思決定に関与してこなかった方針を転換し、民営企業の経営方針等に党の意思を積極的に強制していくことを明確に宣言したものだ。
進展する民営企業の国有企業化
習近平は、2017年の第19回共産党大会で「東西南北中、党が一切を領導する」という毛沢東の言葉を引用して以降、民営企業を含めた全ての中心に党を置くという方針を明確に示してきた。習近平政権の方向性を示す最も明確な兆候は、2019年に中国の民営上場企業44社を国有企業に転換したことだ。米中貿易戦争で打撃を受ける恐れがあるハイテク分野の企業を政府の資金によって、強靭化するためだ。国有化された44社の合計の時価総額は4兆円規模に達する。国有企業の傘下に入った企業の事業領域は防犯システムや情報システムなど、習近平指導部が重視する治安に関係するハイテク分野の企業が多い。例えば「アモイ市美亜柏科信息」は、公安なども含む司法部門のデジタルデータやネット空間の検閲にかかわる技術を手掛ける企業で、国有の国家開発投資集団のグループ企業「国投智能科技」の傘下に入った。またリチウム電池の製造設備で知られる「深圳市贏合科技」は国有電機大手「上海電気集団」に買収された。リチウム電池は習近平政権が「中国製造2025」で重視する産業分野だ。現在、中国政府は、128の国有企業を直接監督している。以前の140社に比べ、数こそ減少しているが、実態は国有企業同士の合併や政府主導の整理統合により、企業規模はより大きくなり、民間企業の領域を次々と浸食している。こうした国有企業の巨大化と民営企業の国有企業化が進展すれば、経済合理性に欠ける経営や過剰生産が世界経済に多大な悪影響を与えることが懸念される。コロナ禍により世界の市場が混乱する中、世界第2位の経済大国である中国には、健全で公平な経済政策を世界に示す責務があると考える。
藤谷 昌敏(ふじたに まさとし)
1954年、北海道生まれ。学習院大学法学部法学科、北陸先端科学技術大学院大学先端科学技術研究科修士課程。法務省公安調査庁入庁(北朝鮮、中国、ロシア、国際テロ部門歴任)。同庁金沢公安調査事務所長で退官。現在、JFSS政策提言委員、合同会社OFFICE TOYA代表、TOYA危機管理研究所代表。