日本民主主義再構築論③ 国民の政治参加を阻害するもの

先行する二つの論考では、世界的潮流における民主主義の危機と、日本での「民主主義の深化」の必要性について述べてきた。

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また、前稿では「国民の政治参加」は日本の民主主義の深化に必要不可欠であるものの、スウェーデン等の「政治が国民から信頼されている国」との比較において、日本の取り組みはごく限定的であり、課題意識は皆無に近いことを確認した。

そこで本稿では、国民、政治家、行政が抱える「国民の政治参加」の「心理的・功利的阻害要因」を概観する。

「政治参加する市民」を忌避する日本の国民的風潮

「お上の言うこと」という表現が、日本にはある。理由や道理はわからないが、とにかく政治が決めたことだから言う通りにしておこう、という皮肉な含意を込めた言葉だ。

歴史的に、市民革命を経験しないままに江戸を引きずりつつ民主主義を受け入れた日本では、支配階級ではない市民が政治に係ることは「なんとなく気持ち悪いこと」として忌避される傾向にある。選挙での投票行為ですら、「権利」とは考えず、納税などと同列の「義務」や「責任」のひとつとして受け入れている市民が多い。

結果、政治家は「市民の義務としての選挙」により「お上」となり、特別な存在として「先生」と呼ばれ、深い谷を隔てたあちら側に移動する。

そのため、市民として政治に参加しようとする人を「あちら側に行きたい人」と仕分けする民衆心理が生まれ、「異質な人」として距離をおくようになる。このような、政治に対する日本固有の風土的特殊性のため、地域社会の課題解決のために参加できる市民発意のプログラムは極めて発生しづらいし、ましてそのような目的のために政治家になろう、という至極まともな発想をもつ人材を育てる土壌は、地域社会には存在しえない。

結果、地方政治を担う有能な人材が育たず、「政治的に枯れた地方」は国政政治家の畑たりえないため、国政政治はキャリア官僚のスピンアウト組や、政治家の血脈を持つ政治的エリートの仕事となり、地方国政ともに、国民の政治参加の余地はいつまでたっても生まれない。

行政と地方議員の悪しきスクラム

地方議会議員の多くは、自分が政治家であることを既得権と考える。そのため、自分たちが極力長く、力をかけずに議員としていられることに知恵を絞る。結果、政治行為を「議員がなすべきこと」と定義して、市民の参加を遠ざけ、自分たちがなした政治的振る舞いを極力秘匿しようと心がける。

行政も、市民からの苦情、要望、提案などがまとまりなく流れ込むことを体質的に好まない。そのため、「市民の代表」たる議員の言うことを聴く「議会」というプロセスは法的根拠があるため実施するものの、それ以外の市民との対話は最小限に抑えようとする。その心情は、「市民の意見をくみ取るために議員がいる」という前提にたてば一定の理解はできる。

しかし、先の通り議員の多くは「市民の代表」としての本来業務に目を背けているために、前提そのものが破綻しているし、破綻していることを行政も十分承知している。承知はしているものの、市民の知恵を行政行為に活かすためではなく、自分たちの行政行為を正当化するための手段として議会を捉える思考が長い慣例となっているため、前例主義が発想の基本となっている公務員はそれが当然のことと考え、議決権を持つ議員に一定の便宜をはかることで業務を円滑に遂行しようと心がける。

議員は、このような行政の体質を知り抜いているため、行政が議員たちの利益にならない提案をすると「否決」という拒否権を振りかざすが、平常時は少々問題のある議案も十分審議せずに「可決」させてしまう。

このように、市民不在で「できる限り穏便に」ことを済ませるための、共同正犯的心情の共有が、「市民の声を届ける議会」ではなく、「行政行為を正当化するための儀式としての議会」を生んでいる。

以上を概観してわかるのは、地域課題を解決するための「市民の政治参加」は、地方議会を通じてのアプローチでは、控えめにいって実現困難であるという事実である。

市民が、より自分たちの生活に直結するはずの地方議会議員選挙に無関心なのは、このような前提を肌感覚で理解しているからともいえる。

次回最終稿は、以上のような状況を打開し、日本における民主主義をより力強いものにするための方策を探る。