東浩紀の近著「ゲンロン戦記」は、ゲンロン・カフェを起業し、シラスという動画プラットフォームを運営する氏の『「知の観客」をつくる』という哲学に触れることができる。
けれども、読者の心に刺さるのは、手痛い経営の失敗の告白である。本人も認めているようにその歩みは凡庸そのものなのだが、それだけに私たちは感情移入できる。年長の人には、40代のおじさんの成長譚などなにがおもしろいと思うかもしれない。これがめっぽうおもしろいのである。
東浩紀とは、だれか
東浩紀は、2000年代の論壇のスターである。「存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて」などの東の評価は議論の分かれるところであろう。「他者」や「コミュニケーション」の専門家と言ってよい。
そんな人物が起業するとどうなるか。さぞ、理詰めでスマートに事は進むのだろう。
当人が言うように、もはや泥にまみれるような仕事はできないはずであった。
けれども、まだまだ世間ずれはしていなかったのである。開業資金を持ち逃げされそうになったり、放漫経営を行ったりと、東の経営は当初から混迷を極めていく。
「ぼくみたいなやつ」から「ぼくみたいじゃないやつ」への意識転換
読者からは、「領収書の大切さ」「テプラはすごい」「HDMIケーブルの仕様は気をつける」といった事務仕事の重要性に改めて気づいたという感想が多く寄せられていて、興味深い。
けれども、私がクライマックスだと思ったところは、起業して、紆余曲折ののち、2018年末に、ゲンロンの経営から身を引いて、代表を上田洋子に譲る場面だ。
本人の主観では、ゲンロン社内の統制が取れなくなって、社内には敵だらけという状況だった。さんざん他人に過剰な期待をかけて裏切られた結果の経営難であった。
それまで東は、自分がやらなければゲンロンが回らないと頑なに思っていた。けれども、ふたを開けると結果はちがった。
結果的にはこの代表変更が大成功――というか、まさに不健康に肥大した当時のゲンロンにとって必要な決断でした。(P217)
けれど、夢そのものは2010年から18年まで、経営危機を経ても変わらなかった。だからぼくはずっと、ゲンロンを強くするためには「ぼくみたいなやつ」を集めなければならないと考えていた。上田さんや徳久くんは大切な理解者だけれど、けっして 「ぼくみたいなやつ」ではない。だから彼らとはべつに「ぼくみたいなやつ」を入れようとして、大澤さんや黒瀬さんによる集団指導体制を考えるようになっていた。むろん、当時のぼくはこのように明確に言語化できてはいません。けれども、無意識の欲望はそのようなものだったと思います。(P220)
このとき、東ははじめて他者は自分ではないと認識したのだろう。「ぼく(東)みたいなやつ」から「ぼくみたいじゃないやつ」に意識が切り替わった瞬間である。さんざん「他者というもの」を扱ってきた哲学者が、ようやく自分と他人はちがうのだということに気づいたのだ。
人間の弱さが見事に描かれている
わたしたち人間は弱い。弱いがゆえに、他者に自分の欲望を勝手に見出してひとり相撲をしてしまう。他者も自分のようにあるべきだと信じて疑わない。
主張もする前から自分の期待することをしてもらえず勝手に傷つく。指示が不明瞭で思うように他人が動かなかったことに怒り出したりする。こういう人は、多い。
他者というものを、経営を通して身をもって知ったのが、「ゲンロン戦記」の白眉だと私は勝手に思う。
頭はいいが理論ばかり先行する哲学ではなく、現実を反映させた哲学のさらなる発展を見てみたい。
本書の編纂をした石戸諭の手腕も評価したい。石戸でなければここまで赤裸々で冒険に満ちた告白にはならなかっただろう。