黒坂岳央(くろさか たけを)です。
古本屋のTwitterアカウントのつぶやきがバズっている。「若い頃はお金の貯金より、カルチャー貯金をしなさい」という本質を突く主張と、「カルチャー貯金」という的確なワーディングチョイスにより、強く首肯させられた人は多かったようだ。
カルチャー貯金とは、美術・音楽・映画・本など様々な媒体を通じて「文化のシャワー」を浴びることを意味する。お金の貯金と同様に、文化体験を内在化させる活動である。
なぜ、年齢を重ねてから始めるのではダメなのか?筆者も思い当たる節があるので、個人的体験談も交えて論考したい。
体験と知識の間に流れる大きな河川
体験と知識の間には、埋められない大きな溝が存在する。筆者は過去に、これを思い知らされた経験がある。
かつて、東京の寺で座禅体験をしたことがある。座禅を実践することで期待できる効果に「今、ここにある瞬間に集中する」というものがあって、集中力や精神的リフレッシュを期待して参加した。その寺の座禅でやることは「呼吸を整えながら、頭の中で淡々と数を数える」というもの。実際の修行を受けるまでは「ただ数を数えるだけなんて簡単だ」とナメてかかっていた。
だが、いざ参加してみると、その思いは一瞬で打ち砕かれた。気がつけば数を数えるのをやめて、余計なことを考えている。「終わったら何をやろうか?」「今日の会議は大丈夫だったか?」など、気がつけば今という瞬間を離れて、未来や過去に思考を巡らせている自分がいることに気がついた。「ああ、まさしくこうならないための修行なのだ」と、猛省したものだ。
「座禅とは、あぐらを組んで座り、呼吸を整えながら数を数える修行」、テキストにしてしまえばこれだけで表現できる。だが、体験してみると活字には浮かび上がらない、その空間に流れる空気を味わうことになる。寺に流れるそよそよと流れる風、老若男女が集い、一心不乱に修行に励む厳かな空気感、寺の外から聞こえる車のクラクションなどの音、足がしびれて足を組み直すなどなど…。テキスト上では「座禅をすることで、一体どのような修行的要素があるのか?」という感覚がつかめないが、それを実際に体験してみると瞬く間に精神力を強く問われる修行であることが分かるだろう。
何事も体験なくして、語ることはできないのだ。
歳を取ってから新しい趣味を始める難しさ
冒頭にお話したとおり、文化体験をビビッドに味わい、楽しみ、価値ある経験値へと血肉化させるには賞味期限がある。もちろん、人の価値観はあまりに多様性があり、究極的には「人による」に帰結する。だが、加齢に伴う新たな文化体験への受容度合いの低下傾向が見られることから、それを前提に論理を展開していきたい。
たとえば、「音楽を聞く」という行為にもそれは当てはまる。英語圏のサイト・AV Clubでは「Why do pop-culture fans stop caring about new music as they get older?」という記事が取り上げられており、歳を取ってから新たな音楽を聞かなくなる理由を考察している。尚、詳しくは筆者の過去記事で33歳から新しい音楽を聴かなくなる理由とその対策というものを執筆しているので参考にされたい。
歳を取ってから新たな文化体験を経て、趣味へと昇華させることの難しさは「意欲の減退」にあると筆者は考える。精神科医の和田秀樹氏によれば、人間の脳の老化は感情を司る「前頭葉から始まる」という。同氏は「言語生IQや、動作生IQは平均73歳くらいまで維持できるも、前頭葉は40代頃から萎縮、老化が始まる」としている。つまり、歳を取って新しいことを始める難しさは、能力の低下というより「新しいことを始めたい!」というフレッシュで意欲的な気持ちが失われ、保守的になることがその根本的理由にあるというのだ。また、それだけではなく、それまでの人生経験と知識がある分、新たな文化理解に対して先入観や偏見というバイアスがかかりやすくなる点も否定できない。
歳を取ってから新たな趣味を開拓することの、難しさはこの点にある。
老人になると全員、盆栽が趣味になるのか?
筆者は子供の時分に、「なぜ、老人は盆栽が趣味なのか?」と子供心に不思議に思っていたことがある。「自分も老人になれば、盆栽を趣味にするのだろうか?今は全く興味がないが、ある日突然に天啓を得るように盆栽の魅力に気づくのだろうか?」と思っていた。
だが、今はその「解」がわかる気がする。盆栽にハマる人というのは、元々盆栽を楽しめる素養の持ち主であり、老後に余暇時間を得たことでそれが開眼するに過ぎないのだと。筆者の親戚の叔父さんは工学博士号を持ち、長く国内シンクタンクや大学で電気工学の研究をしていた。いまや70歳を超えているが、現在やっている趣味は工学論文を読み、勉強をすることだという。盆栽には一切興味がない。この人物の場合は、工学の世界に足を踏み入れたのは、18歳の大学入学時である。つまり、50年前の若い頃から、一貫して同じ分野を楽しんでいることになる。また、彼の趣味はクラシック音楽を聞くことだ。これも半生を通じて続けている趣味である。聞けば、若い頃に雷を打たれるような交響曲の美しさに出会ったことがきっかけだという。
人間は若い内に楽しんだこと、体験を経たことが一生涯カルチャーを楽しめる回路の獲得につながる。もちろん、人によって中高年から新たな趣味に目覚める人もいるし、価値観は様々なのであくまで傾向としての話に過ぎない。だが、「傾向として」という前提の元での論理展開が許されるなら、やはり若い頃はお金の貯金よりカルチャー貯金をするべきだろう。そういうわけで、今回の主張には大いに頷かされるのである。