顧問・麗澤大学特別教授 古森 義久
アメリカのジョセフ・バイデン大統領は鉄道が大好きである。首都ワシントンでの長年の政治活動中、160キロほど離れたデラウェア州の自宅から列車通勤をしていたことで広く知られる。
その鉄道「アムトラック」がこの5月に開通50周年を迎えた。その記念行事でバイデン大統領がその鉄道への思い出を自由に語った。ところがその発言は事実の大きな間違いばかりだった。同大統領がふだんは国政について自由に語ることを側近から厳しく抑えられている理由が歴然とした「真実の大失言」に満ち満ちていたのだ。
首都のワシントンら北のニューヨークや南のバージニアの両州などへと延びる幹線鉄道のアムトラック――アメリカとトラック(軌道)という言葉を合成した名称――は5月1日に開設50周年を迎えた。
ワシントンとニューヨークの中間にある伝統ある都市のフィラデルフィアで開かれたその記念式典に出たバイデン大統領は自分自身のアムトラックへの思い出を報道陣や鉄道関係者を前に自由に語った。
ひとつにはバイデン氏は半世紀近くのワシントンでの政治家生活ではアムトラックを頻繁に利用することで知られていた。ワシントンから北へ約160キロ、列車で片道1時間20分ほどのデラウェア州ウィルミントン市の自宅との間を毎週、あるいは週に数回も通勤していたのだ。この列車利用は彼が上院議員だった時代だけでなく、オバマ政権の副大統領になってからも続いていた。だからバイデン氏はアムトラックへの愛着もとくに強い、ということなのだ。
さてこの開通50周年式典でバイデン大統領は次のような発言をした。アムトラックへの真の思いを熱くこめたような楽しそうな口調だった。
「私はとにかくアムトラックの愛用者だったから、周囲から『アムトラック・ジョー』とも呼ばれていた。私が副大統領になって4年か5年が過ぎたころも、高齢の母親が病気だったので、その見舞いのためにウィルミントン市の自宅には頻繁にアムトラックで戻っていた」
「ちょうどその時期にアムトラックではなじみのアンジェロ・ネグリという名前の車掌が車内で声をかけてきて、『ジョー、あなたは副大統領の専用機での飛行距離が130万マイル(約200万キロ)を越えたというニュースを聞いたけれど、アムトラックでの走行距離の方がずっと多いですよ』と列車の効用を説いてくれた」
バイデン大統領の以上のような発言はアメリカの主要メディアによっていっせいにその言葉どおりに報道された。ところがすぐにバイデン発言の内容が事実と異なることが指摘されてしまった。
まずバイデン大統領が話したエピソードは「副大統領になってから4、5年目」というのだから2013年か2014年である。ところがバイデン氏の母のキャサリーンさんは2010年に亡くなっていた。副大統領になった翌年だった。
さらに彼が懐かしそうにその名前をあげた車掌のアンジェロ・ネグリ氏はバイデン氏と車内で話したという時期にはすでに死亡していた。しかもアムトラックの車掌の職から引退したのは1993年だったという。バイデン氏の回想よりは20年も前に車掌を辞めていたわけだ。
そのうえに2013年ごろに「バイデン副大統領の専用機での飛行距離が130万マイルを越えた」と発表されたという言葉も、事実とは異なっていた。ホワイトハウスの記録ではオバマ政権のバイデン副大統領がその専用機エアーフォース2での飛行距離合計で100万マイルを越えたのは2015年だとされていたのだ。
バイデン大統領のアムトラックに関する最近の発言はこのように明白な事実の違いだらけだったのだ。いずれも些細なミスとはいえるだろう。だが、仮にもアメリカ合衆国の現職大統領の公式の場での発言なのである。そこから浮かんでくるのは、もはや認知症にも近い記憶がまだらな高齢の人物のイメージだといえる。バイデン大統領の統治能力にもかかわる深刻な現象でもあろう。
ホワイトハウスでは当然、バイデン大統領のこうした状態を知っていて、同大統領が報道陣や一般市民と接触する機会を厳重に制限している。とくに記者団からの質問に自由に自分自身の言葉で語るという機会を最小限にしている。この点、サキ大統領報道官も5月上旬に「バイデン大統領には記者との自由な質疑応答はなるべくしないように助言している」と、もらしたばかりだった。
バイデン大統領が就任以来、公式記者会見は2ヵ月以上、議会演説は3ヵ月以上もしなかった異例の対応も、この発言能力の問題と深い関連があるといえよう。現に初の記者会見では質問を許す記者をすべて民主党支持メディアに限り、質疑応答でも想定の回答を多数のカードにして準備していた。これまた大統領側近のバイデン発言のミス症候群を恐れての配慮だといえよう。
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古森 義久(Komori Yoshihisa)
1963年、慶應義塾大学卒業後、毎日新聞入社。1972年から南ベトナムのサイゴン特派員。1975年、サイゴン支局長。1976年、ワシントン特派員。1987年、毎日新聞を退社し、産経新聞に入社。ロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長、ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員などを歴任。現在、JFSS顧問。産経新聞ワシントン駐在客員特派員。麗澤大学特別教授。著書に『新型コロナウイルスが世界を滅ぼす』『米中激突と日本の針路』ほか多数。
編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2021年5月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。