清貧の美徳

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日経ビジネスの電子版にこんな記事があります。「Raise 議論 トヨタ社長の報酬はマスク氏の2670分の1、質素は美徳なのか」。えぇ、そんなに差がついていたとは私も気が付きませんでした。トヨタの社長の報酬は約4億5000万円。イーロンマスク氏が貰ったその2670倍っていくらかと言えば1兆2000億円(ただしその権利を取得しただけでまだもらったわけではない)だそうでこれはいくら何でも天文学的金額だと思います。

当然、日本人の議論としては北米の超高額所得者は「いったい何に使うのか」であります。私がみるかぎり概ね2つの流れがあり、そのどちらからに偏るというより収入や資産に応じてどちらに比重を乗せるか、という考え方です。その2つとは一つがファミリーツリーの幹を太くすること、もう一つが社会奉仕です。

北米のCEOの報酬は約15億円ぐらいが中間値とされます。日本の場合、売り上げ1兆円以上の企業のCEOの平均が1億9000万円であることを考えると足元にも及ばないわけです。かつて日産のゴーン氏が10億円越えの報酬を貰っていた際に日本国内で大きな批判が出ましたが、彼は気にも留めていなかったはずです。「1億、2億ぐらいの小銭でなぜ、俺の能力を売らねばならないのか」と。そもそも発想の原点が違い過ぎるのです。

まず、ファミリーツリーですが、離婚が多い北米でもしっかり資産形成をしたりファミリービジネスを後世に引き継いでいく会社は多いものです。その為、税制にも合法的にファミリーツリーの幹を太くする方法はいくつかあります。さらに有能な弁護士や会計士がそれをもっと工夫し、幹が育つようアドバイスし「養分補給」できる形態がとられています。但し、それらの弁護士、会計士の費用は腰を抜かすほど高く、資産額の比率でチャージされます。実質的に資産額の5-10%ぐらいは覚悟しなくはなりません。

カナダは相続税がありません。アメリカはありますが、夫婦合算の場合、控除額が23億円もありますので一部の超資産家を別にすれば基本的な考え方は個人の富は個人に帰属するという考え方であります。

一方、もう一つの社会貢献ですが、これは恵まれない人に何かをするというより社会をより良くすることに特定目的で使ってもらうという形が多いと思います。大学施設の拡充や特定医療の治療に役立ててもらうという考え方で時として冠(ネーミングライツ)が付いたりするわけです。そうすれば故人になってもずっと忘れらないという意味で残された家族もプライドをもってより社会に貢献するという流れも期待できるのでしょう。

では街中にいる浮浪者にはなぜ、支援の手を伸ばさないのでしょうか?教会ではそのような人に無料の食事を配ったりしますが、富裕者が資金支援をしないのはそれが浮浪者にとって血や肉となるような資金にならないと考えているからです。努力しない者に対して社会は非常に厳しく、ルーザーは一生ルーザーとなりやすい社会構成だとも言えます。

ではファミリーツリーとはなにか、といえば感覚的には日本でも昔あったお殿様と同じ考え方に近いのかと思います。日本は領地でしたが今は資産規模を通して影響力を持ち、いざという時に備えるという発想です。狩猟民族ですからその頂点に立つのは意味あることです。例えば北米の人がコンドミニアムを購入する際、最上階のペントハウスに特別のプレミアムを感じるのは最上階にいることで支配感を心のどこかでくすぐるのです。あるいは戸建て住宅でも上から見下ろせるような山の上、崖っぷちに住宅を建てる人がいますが、同じ考え方だと思います。

日本は清貧を美徳とします。個人的に思うこの発想の原点は神道だと考えています。つまり、われわれの生活はすべて八百万の神様があってのことであり、日本の国土は神々のものであり、それを民が借り、耕すという発想を持っているからなのでしょう。今、社会ではSDG’sが話題ですが、日本人はそもそも太古の時代からそれを生きる知恵として身に着けていました。

例えば植林は万葉集にも記されていたとされるし、水産業も取りすぎには原則、気を配ってきています。農業だって耕地が枯れないように工夫をしてきており、国土が永遠の豊かさを維持することを知り尽くしています。

取りも直さず、個人の富を決して美しいとは考えず、その努力と功績はたたえるが富は還元されるべきという発想があるとみています。輪廻転生は個人資産にも及ぶのだ、ともいえるかもしれません。

よってファミリーツリーは必要以上に太くしようとしてもそれはできないし、日本の社会奉仕はそもそも落ちこぼれをあまりつくらない社会であります。共同体の歴史を探れば必ず出てきますが、日本には個人というより集落などを通じた小規模の集団制度を生活の基盤とし、落ちこぼれがいれば小集団全体の責任にされていました。だからこそ、村八分という発想も生まれたとも言えます。

ただ、この清貧が今の時代も有効か、と言えば議論はあるところでしょう。リーダーシップを生みにくくした、あるいはサル山の大将ばかりになった弊害は最大のマイナス要因でしょう。ただ、日本人が欧米の巨万の富を良しとする風潮は個人的には全く想像できないです。仮にそんな社会が出来たらそれは私の知る日本ではないと断じて申し上げます。

日本に英雄がいない、とされるのは英雄を良しとしない文化がそこにあるからでしょう。これぞ清貧の美徳です。むしろ、多くの人々が我こそ恥じることなく人生を歩んだ英雄だと自己満足できる生き方をしています。私も北米の高額所得者と報酬の差でうらやましいとは一度たりとも思ったことはありません。これが日本の美徳ではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年5月21日の記事より転載させていただきました。

会社経営者
ブルーツリーマネージメント社 社長 
カナダで不動産ビジネスをして25年、不動産や起業実務を踏まえた上で世界の中の日本を考え、書き綴っています。ブログは365日切れ目なく経済、マネー、社会、政治など様々なトピックをズバッと斬っています。分かりやすいブログを目指しています。