二分化する日本は今日に始まったことなのか?

五輪を巡る論争をもって「国内を二分する」といった表現を目にすることがあります。世の中に論争は絶えないのであってコロナと五輪が日本を分断したような風にも取れそうな報道も時としてありますが、それを論じる前に日本の歴史的背景をもう少し考察してみたいと思います。

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二分化する日本とは今日に始まったことなのか、と言えば否であります。ずっと以前から日本は様々な事象に於いて対立軸を抱えていました。よって特別のことでもないし、五輪を巡る話題については9月になれば結果を受けて白黒がはっきりするわけでその時のフローチャートも大体、頭に描けるようになっています。

議論をするのは人間の特徴であって古代ギリシャ、ローマ時代からずっとあったことです。つまり、人間は意図せずして所属している大集団、例えば国家や地域住民がある事象に対して皆が同一の考えで行動することはまずありません。常にAとBという人やグループが生まれます。これは単純化しているモデルなのでもちろん、CやDという人もあります。また時としてAでもBでもない中間層を時の世論が引力のように吸い込み、マジョリティを作ることもあります。

一方、意図しないのに強要させられたのが先の大戦だったと思います。全体主義とか軍国主義となると国家総動員になりますので個人の考え方を無視し、処罰し、完全な画一的方向性を作り上げ、驀進させます。中国の文化大革命もそうで大方針に逆らう者がいればあからさまで見せしめ的な処罰を行い、恐怖政治を断行するわけです。しかし、これは人間の本質に蓋をした状態であります。

またオウム真理教のようなマインドコントロールというのもあります。これは人が精神的に弱っている時、悩んでいる時などにその人の心の隙間に幸福や安楽といった言葉で巧みに侵入し、いつの間にかその虜にさせるものです。これも健全な人間が健全な判断をしていない点で今日の論点からは除外されるべきものと思います。

では日本の二分化はどんな時に起きたのでしょうか?与党と野党という点だけを見ても野党は与党のすべてを否定し、批判、非難し続けています。時として「やけくそで言っているだろう」と思うケースもありますが、そもそも与党が嫌いというスタンスであって案件ごとに歩み寄る姿勢はないのです。朝日新聞も与党を受け入れるとか安倍前首相にケースバイケースで同意するということは微塵にも思っていません。

LGBTの法案がなかなか通りません。思想的保守派が難癖をつけているのです。ただこの難癖もいずれ包囲網ができるので弱体化し、どういう形にせよいつかは通過する法案でしょう。少し時代をさかのぼれば東日本大震災を機に起きた原発問題。これもいまだに意見が割れています。一度、人々の心の奥底に強い印象を植え付けた事件はどれだけ時代が変わり、技術が進歩しても結論ありきの「決め付け」の心理が働き、方向転換できないのです。

もうすこし歴史を振り返ると戦後の労働組合運動や学生運動、明治維新に向かう幕府派と薩長や朝廷、更には関ヶ原の戦いも国を二分化しました。枚挙にいとまがありません。

ただ、二分するような案件、事件を介して次のステップへ改革が進んだこともまた事実です。関ヶ原の戦いを通じて国内の安定を徳川幕府が提供したのは戦国時代で疲弊した諸藩の事情もあったでしょう。戦後の左翼運動は共産党、学生、企業の従業員が三位一体で始まったのに突き進んだ学生に対して共産党と企業組合は離れていきました。企業の経営陣は組合と理念や労使条件改善を通じて一体化し、共産党は時代に置いて行かれ、学生は自爆しました。原発に関していえば、強い憎悪一辺倒だったものからカーボンゼロを前提にした必要性と最新型の小型原発が注目されそうです。

ではコロナはどうか、と言えば私はこれも過渡期にあるとみています。ワクチン接種が進む過程において徐々に人々の考えが変わってきています。感染者の数が減少していることもあるし、高齢者の接種が進み、精神的安堵感が出てきていることもあります。大事なのはどういう結果になるにせよ、大きな反省と過去の考え方ややり方にメスが入り、新しい仕組みが生まれることなのです。

私は二分化するほどの議論ほど日本を良くするものはないと思っています。特に日本の場合は慣例主義で過去に事例がなければ新しいことに踏み込まない傾向が極めて強い国です。だからこそ、大議論を通じて変わり、時代の空気と取り込み、人々もそれに順応していき、対応できる技術やアイディアがどんどん提供されることで社会は進化していくと考えています。

もう一つ、サル山の大将と化した日本の社会構造のそもそもは神道による日本的平等主義が前提にあると考えています。つまり、表面上差がない、だけど人々は差を求める、一方、差があり過ぎると「出る杭を打つ」という極めて特殊で微妙な社会の距離感を生み出したのが日本の特徴です。これは私が外から30年間見続けて確信をもって言える日本社会論の一つです。

またこの微妙なニュアンスは外国人にはなかなか理解できないと思います。そもそも神道の精神が分からなければ私の言わんとしていることは分かってもらえないと思います。

コロナも五輪も後になれば収まるところに収まります。日本の社会はそのようにしながら独自の進化を遂げていると考えています。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年6月13日の記事より転載させていただきました。

会社経営者
ブルーツリーマネージメント社 社長 
カナダで不動産ビジネスをして25年、不動産や起業実務を踏まえた上で世界の中の日本を考え、書き綴っています。ブログは365日切れ目なく経済、マネー、社会、政治など様々なトピックをズバッと斬っています。分かりやすいブログを目指しています。