ユダヤ教とイスラム教は過去1300年間の歴史を振り返る時、常に宿敵同士だったわけではない。むしろ相互補完関係の時期が長かった。イスラム教の経典コーランにはユダヤ教の歴史に登場するモーセやイスラエル国民が最も尊敬しているダビデ王が呼び方こそ少し違うが登場している。イスラム教徒は創始者ムハンマドの教えを久しく口述で継承してきたが、「書籍の民族」と呼ばれてきたユダヤ人の学者たちの助けを借りて聖典コーラン(クルアーン)を完成してきた経緯がある。ユダヤ人学者の功績無くして、コーランは有り得なかったのだ。
参考までに、ペルシャのクロス王の支配下、ユダヤ人学者はモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)をまとめる時間を与えらた。そのためユダヤ教の教えを聖典にまとめることができた。ユダヤ教はペルシャのクロス王の計らいが無ければ、ユダヤ教の教え(ヘブライ語聖書、タルムードなど)を聖典化できなかった。歴史を少し振り返るだけで、ユダヤ教とイスラム教の関係、そしてイスラエルとイラン両国関係はまったく別の角度から見ることができるわけだ(「ユダヤ教を発展させたペルシャ王」2017年11月18日参考)。
イラクのバクダッドとイベリア半島(現在のスペイン)ではユダヤ教徒とイスラム教徒は相互補完関係で助け合って共存してきた。その関係はオスマン帝国時代でも大きく変わらなかった。歴史学者は、「イラクのバクダッドとスペインで、最高のイスラム文化が栄えた」と述べている(「欧州社会は『アブラハム文化』だ!!」2021年6月20日参考)。
問題は近世に入ってからだ。欧州でユダヤ人の迫害が強まってきた19世紀後半から20世紀前半になると、テオドール・ヘルツル(1860~1904年)が著作『ユダヤ人国家』を出版し、ユダヤ人が迫害を逃れるためには独自の国家を建設する必要があると主張し、その声は欧州居住のユダヤ人の多くの支持を得た(中東や北アフリカに住むユダヤ人には余り反響はなかった)。
そして1933年、ナチス、ヒトラーの台頭を受け、欧州に住む多くのユダヤ人はパレスチナに移住していった。そしてナチス・ドイツ軍のユダヤ人虐殺(ホロコースト)後、600万人のユダヤ人を失ったユダヤ人たちの間には、「同じ悲劇を繰返してはならない」として、イスラエル国家の建設を求める声が高まっていったわけだ。そして1948年5月14日、中東のパレスチナにおけるユダヤ人国家「イスラエル」の建国宣言が発せられた。
その後、エジプトや他のアラブ諸国でイスラエル建国に反対する抗議の声が広がった。看過できない事実は、イスラエル国家建設は欧州居住のユダヤ人の願いであり、アラブ諸国に住むユダヤ人のそれではなかった点だ。建国後、アラブのユダヤ人は2等国民と見られた(イスラエルの人口880万人のうち、2割はアラブ人)。
一方、シオニズム運動が台頭するほぼ同時期に、汎アラブ主義運動が生まれてきた。アラブ民族のアイデンティティを求める運動だった。それが民族主義と重なって大きなうねりをもたらしていった。
歴史家は、「シオニズムと汎アラブ主義が同時期に誕生したのは不幸だった」と受け取っている。1929年にはユダヤ人とイスラム教徒の間で激しい戦いが生じる。その頃から、反ユダヤ主義が拡大。第一次大戦では、汎アラブ主義は欧州列強とオスマン帝国に対抗する意味合いがあった。英国の支援を受け、アラブ民族の結束を促す運動として広がっていった。
イスラエル建国後、汎アラブ主義は反イスラエル運動となり、パレスチナ問題は汎アラブ主義の主要アジェンダとなっていった。エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領(1918~70年)は汎アラブ主義運動のシンボルのような立場だった。エジプト、シリア、イラクはイスラエルに攻撃を仕掛けたが、いずれもイスラエルが勝利、1967年6月5日から始まった「6日戦争」ではイスラエルはほぼ全てのアラブ諸国を敵に回した戦いに、短期間で勝利した。この時代になると、イスラエルの軍事的優位性はより鮮明になっていく。
イスラエルの建国時、パレスチナ地域に住んでいた70万人から80万人のアラブ人が、住んでいた地域から強制的に追放されて行く。パレスチナ難民が生まれた。パレスチナ人は5月15日を「ナクバの日」(大破局)と呼んでいる。ちょうどユダヤ人の「ショア」(大量虐殺)と同じ歴史的意味合いを含めているわけだ。
その後、アラブとイスラエルの和解と共存を勧める動きはあった。いずれも大きな代価を払っている。エジプトのアンワル・サダト大統領(1918~81年)は1977年にアラブ首脳としては初めてイスラエルを訪問、1978年9月、カーター米大統領(当時)の調停で、キャンプ・デービット合意を実現。79年3月26日にエジプト・イスラエル平和条約を締結した。しかし、サダト大統領は1981年、ムスリム同胞団の急進派「ジハード団」のメンバーに暗殺された。一方、イスラエルのイツハク・ラビン首相(1922~95年)はアラブ側との和平を進め、1993年にオスロ合意に調印し、94年にはヨルダンとの平和条約を調印したが、1995年11月、和平反対派のユダヤ人青年に銃撃されて死去した。
すなわち、「1300年の歴史」の中で、ユダヤ教とイスラム教の関係が悪化していったのは過去100年の間だったわけだ。シオニズムと汎アラブ主義の台頭で関係は険悪化し、イスラエル建国後、和平の動きはあったが、イスラエルの軍事的優位性のもと、ユダヤ教とイスラム教との関係は今日まで紛争を繰返す歴史となった。
ただし、看過できない事実は、歴史的長さから見たら、紛争期間は平和共存期間より圧倒的に短いことだ。共存時代でも紛争はあったが、厳密に言えば「部族間の戦い」であって、「宗派間の対立」ではなかった。イスラム教指導者のもとユダヤ教徒とイスラム教徒が結束して他の部族と戦ったケースが多かった。
イベリア半島からイスラム帝国を追放したキリスト教勢力は欧州全域でその支配を拡大し、同時に、欧州に居住したユダヤ教への迫害が行われた。北アフリカや中東に住み着いていたユダヤ教徒はその間、イスラム教徒との共存関係を続けていった。シオニズム運動が広がっていった時もアラブ居住のユダヤ人には大きな影響を与えていない。ただしアラブ諸国で反ユダヤ主義が芽生えてくると、イスラエルに移住するアラブ系ユダヤ人が増えていったわけだ。
神にとって、永遠は瞬間であり、瞬間は永遠という。それではユダヤ人とイスラエル教徒が織りなした「1300年の歴史」は神にとってどのような時間だったろうか。ユダヤ人とイスラム教徒の間の「紛争100年」の歴史は瞬間だったに違いない。そして「紛争100年」の歴史を閉じる解決の鍵は「1300年の歴史」が提示しているのではないだろうか。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年6月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。