小山田圭吾氏の壮絶いじめ問題が、大きな騒動となっている。私は、小山田氏の和光学園中学時代からの友人で「フリッパーズ・ギター」時代の盟友である小沢健二氏と高校の軽音楽部で同期だった。小山田氏と高校時代に会ったこともあり、噂話も聞いたことがある。ここでは人格問題は、あえては書かないようにする。
いずれにせよ、今回の騒動の発端は、小山田氏が五輪開会式の作曲者に選ばれたことだ。そこに大きな疑問がある。
大会組織委員会の当事者意識が、あまりに薄弱だ。開会式数日前で音楽を変更することができない、という事情があるのはわかる。だが、そうであるならば、なおさら大会組織委員会としての倫理的立場ははっきりと表明し、糾弾すべきことを糾弾したうえで、五輪精神に傷をつけて多くの人々の期待を壊したことを本人と共に謝罪すべきではないか。
ところが五輪組織委員会は、「『組織委員会として把握していなかったが、不適切な発言である』としたが、『本人はこの取材時当時の発言については後悔し反省しており、現在は高い倫理観をもって創作活動に献身するクリエイターの一人であると考えている』と擁護」することしか行っていない。
この報道によれば、組織委員会が問題視しているのは、小山田氏の雑誌における「発言」であり、小山田氏の「行為」ではない。つまり、これでは、雑誌における「発言について」本人が「公開し反省」すれば、組織委員会としてはそれで帳消しにする、ということになってしまう。
つまり、雑誌記事さえなかったことにできれば、それでよい、という立場になってしまう。
これでは凄惨ないじめの被害者の関係者はもちろん、いじめの内容に精神的なショックを受けている多くの人々が、全く納得しないのは、当然だろう。
知的障害者の権利擁護と政策提言を行う「全国手をつなぐ育成会連合会」が、公式サイトで「今般の事案を踏まえても留任させる決断をしたにも関わらずまったく公式な説明を行っていない東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会には、重い説明責任があります」と指摘しているのも、そのような組織委員会の態度への疑問からだろう。
「全国手をつなぐ育成会連合会」は、「本会としては、すでにオリンピックの開催が直前に迫っており、小山田氏も公式に事実を認め謝罪していることも勘案して、東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への参加取りやめまでを求めるものではありません」と述べながら、「しかし、今般の事案により、オリンピック・パラリンピックを楽しめない気持ちになった障害のある人や家族、関係者が多数いることについては、強く指摘しておきたいと思います」とも強調しており、問題の本質を捉えている。
同会の「声明文」は、冷静さを保ちながら、日本社会のあり方を問い直し、その観点から五輪組織委員会に社会的責任のある態度をとることを求めている点で、優れた文章だ。
これと対照的なのが、五輪組織委員会だ。ただ事の鎮静化だけを図ることだけを目指し、「発言」を「反省」したから辞退させることは回避したい云々といったことだけを気にしている近視眼的な姿勢に終始しているように見える。
現在、日本の世論は、オリンピック開催の是非で割れている。過去にも、現在にも、多くの不祥事や不手際が生じていることへの批判の声も強い。この背景に、「五輪貴族」への接待だけは欠かさないようにしながら、前世紀の高度経済成長時代の物語を振り回すだけで、高齢男性たちが巨額の資金を動かしている仕組みへの深い猜疑心があることに、五輪組織委員会は、もっと真摯に向き合うべきだ。
金儲けに群がった高齢男性たちが迷走を繰り返して無残にも失敗した、という破綻のシナリオから脱するには、どうしたらいいのか。
五輪が目指している高尚な精神に共鳴して、日本も国際社会に貢献するために五輪を行う、という未来志向の価値観にこだわる必要がある。
五輪組織委員会には、そのことを真剣に考えてほしい。