紆余曲折乗り越え東京五輪開幕

紆余曲折あったが、兎にも角にも東京五輪が開幕した。

開会式での橋本聖子会長の挨拶は、ここまでの苦悩を乗り越えた感動の瞬間で、涙をこらえるシーンだった。その後のパントマイムによるピクトグラム表現や、ドローンによる空間表現なども印象に残る。そして何と言っても、選手達の晴れやかで決意に満ちた表情は、本当に開催できて良かったと、しみじみ思わせてくれるものだった。

大坂なおみさんTwitterより

大会期間中は、選手達には純粋に競技に集中してもらいたいし、我々サポーターは全力で応援の気持ちを届けたい。

未だに止まることを知らない感情的な反対行為は、いよいよ政治色や思想的活動家による先鋭化を極めている。バッハ会長の広島訪問時のデモが左翼系活動団体によるものだという事実は周知であるし、天皇陛下の政治利用による中止宣言強要や選手村設備サービスの不備という事実無根のデマ拡散など、多くの人は冷静に反対活動の根幹にあるものを見極めて欲しい。

そして、地上波ニュースの報道やコメンテイターの発言が、如何に事実に基づかない感情論でしかなく、無責任に吹聴している事も知って欲しい。本人達が堂々と手のひら返しをして何が悪いと開き直っているのが動かぬ証拠だ。

前述の核心的反対活動家や全体主義を目指す政治勢力、上から目線のメディアは別にして、多くの国民も感情的に反対意識を持っていたのも事実だろう。しかし、革新活動に流されていたと考えると、五輪の真実をこの大会中にも是非冷静に見つめ直して欲しいと切望する。

とはいっても、スポーツ自体を嗜好しない人もいるだろうし、趣味嗜好は各個人の自由なので、好きでないものを好きになれとは言わない。しかし、スポーツをこよなく愛し、スポーツに夢を抱き打ち込むアスリートも存在し、そこから夢をもらう子供達や人生の活力を得る多くの人も存在することを否定しないでもらいたい。本来のリベラル系はマイノリティの人権を大切にするはずなのだから、アスリートの人権も重視して欲しいものなのだ。

文化芸術だって、各個人好き嫌いあるだろうが、嫌いだからと言って否定は出来ないはずだ。

何はともあれ、多くの障害を乗り越え、無観客という代償は払わざるを得なかったが、開催できたのだから、大会期間中は雑音を排除し、全集中五輪としたい。前述の反対行為に対しての清算は大会後にきっちりと責任追及できる世の中になることを期待して。

五輪の現代における意義と課題

よく議論になる五輪の意義だが、崇高な理念も当然あるが、具現化、実践の為には乗り越えなければならない壁が有り、その一つのカタチが現在の五輪のビジネス化なのだ。

五輪には他の国際大会と異なる大きな特徴が主に二つある。一つは、メジャースポーツだけでなく、多くのマイナースポーツを取り入れているということ。二つ目には、参加国が強豪国だけでなく、多くの弱小国や地域、難民にまで門戸を開いているということ。

言うまでもないが、メジャースポーツ、強豪国は、放っておいてもスポーツ振興が出来るが、マイナースポーツはその競技自体の普及すら困難なのが実情である。マイナースポーツは普及していないからマイナーなのだが、マイナー故競技人口も増えず、結果としてレベルも上がって来ない。

五輪は、お国柄に合わせ、ご当地のマイナースポーツも含めて種目を積極的に採り入れ、スポーツ全体の振興を図っている。今回、ソフトボール上野選手の投球や、若い後藤選手の勢いあるプレーを世界に発信できるのは、このお陰なのだ。

このマイナースポーツの普及拡大は、口で言うほど簡単ではない。メジャースポーツも含めた五輪という大会による発信力が不可欠なのだ。そして、金まみれと揶揄されるビジネス化も必要なのだ。

東京都でも行っているが、ジュニア世代の身体能力の高い人材を発掘し、マイナースポーツに取り組む事を推奨し、強化選手として支援する活動や、体験教室などの普及活動、大会に対してのスポンサードなど、ビジネス化による投資活動が行われている。これらの活動が実を結べば投資活動としてのリターンも有り、雇用なども生み出す正の循環効果があるのだ。

普及のためには、底辺の拡大は必須であり、多くの国の人達に参加枠を提供することは、様々な視点の夢や活力を生み出す効果にも繋がる。

現代のスポーツはビジネス化することで、普及を促進し、継続的に経済発展と社会の活力を生み出す効果は大きい。よく考えて欲しい、文化芸術なども含めて興行において、ビジネス化を否定したら振興など出来るはずがなく、否定されるものではないはずだ。

五輪は、メジャースポーツによるコンテンツ力を最大限に利用したビジネス化により、スポーツ振興、マイナースポーツの普及の一端を担っているのだ。

但し、弊害として、利権構造が生まれ、利益が固定化する課題もあるだろう。この構造はリベラル系の思想では看過できない問題に移るのかも知れない。しかし、これもバランス次第であり、悪と決めつけるものではないだろう。

バッハ会長の言動が殊更五輪貴族であり上から目線だと批判されがちだが、客観的にビジネスの視点、或いは各国の客観的状況で考えると、至極当然の発言が多く、批判の論拠が非論理的で国際感覚のない感情論である事が多いと気付くだろう。論理的に批判するのは問題ないだろうが、多くは誹謗中傷であり、所謂「坊主憎ければ袈裟まで憎い」は国際的には問題なのだ。

そして、五輪に限らない話だが、メディアの放映権を持ちながらの報道姿勢の矛盾などの問題は、財源となるスポンサーから一石を投じられている。スポンサー企業自体も、投資家から株主総会などで広告の姿勢を問われ始めている。この影響は、東京五輪後、大きなウェーブとして押し寄せるだろう。

マスマーケティング、マスメディアから、パーソナルマーケティング、オウンドメディアへと変遷する構造変革により、既存の既得権益は構造変革を余儀なくされ、新たなビジネス構造に組み替えられる。その動きは東京五輪後に強まるだろうし、勢いが必要だ。その実現のためには、秋の総選挙でその構造変革を見据えた戦いが必要であり、スタートになるべきなのだ。