秋篠宮家の長女・眞子さまが10月26日に、婚約が内定している小室圭氏との婚姻届を提出して結婚し、記者会見を行われることが発表された。同時に、眞子さまが「複雑性PTSD」の状態にあることも発表された。
この問題は数年にわたって多くの人々の関心を集めて、生半可な知識や関心で簡単に立ち入れるような問題ではなくなってきている。ただ私は、今回の事態が、日本の国家制度に一つの問題提起をしているのではないか、ということは感じている。
全部で103条しかない日本国憲法の冒頭から第1条から第8条までを占めているのが、天皇制に関する条項だ。日本国憲法制定当時の日本人にとって、そして連合国関係者にとって、天皇制の位置づけは巨大な問題であった。その結果として、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という規定が第1条として置かれた。
この憲法第1条は、「象徴天皇制」を定めたものとして知られるが、極めて権力的な意味も含みこまれている。「天皇」の存在が、「主権者・国民の総意」に依拠しているためである。
憲法に見られない「皇族」の存在は、皇室典範で定められている。皇室典範は、憲法第2条でその存在が明記されており、通常法の一つでありながら、憲法体系の事実上の不可分の一部をなしている特殊な法律である。したがって「皇族」にもまた、事実上「主権の存する日本国民の総意に基」いている性格があると言える。
こうした点を鑑みて、日本の憲法学の有力な学説は、「天皇」のみならず「皇族」を「国民」ではないとみなし、「基本的人権の享有主体」とも認めない。なぜなら日本国憲法において、「基本的人権」は「国民」だけが享受するものだとされているからである。(佐藤幸治『日本国憲法論』第2版161頁)政治家層でも、この有力説は、広く浸透している。
これは特異な仕組みである。たとえばイギリスの場合であれば、皇族と臣民との区別はなされるが、同時に、たとえ大きな制限が課せられているとしても、依然として「主権者」が国王・女王であるという擬制は維持されたままだ。マグナ・カルタや権利章典によって成り立つイギリスの立憲主義の歴史において、諸個人の権利は、臣民が王に認めさせたものだ。18世紀のアメリカ合衆国(北米13植民州)の独立宣言も、イギリス王の社会契約違反に伴う臣民の権利としての革命権の行使、という論理で正当化された文書だった。
ところが日本では、「国民」のほうが「主権者」である。フランス革命思想の影響を受けた明治時代の自由民権運動の考え方である「主権在民」を唱える民間パンフレットの議論を、日本国憲法の起草者が取り入れたことによる「ねじれ」だ。「主権在民」の本家本元のフランスは、共和制に移行してしまっているので、日本のような悩みはない。
この悩みを、いわば折衷説で乗り切ろうとする学説もある。「天皇」及び「皇族」は「国民」であるが、その権利の行使には制約がかかる、という説である。特に「皇族」の場合には、憲法で定められた基本的人権の適用に、皇室典範が制約をかけるという落ち着かない仕組みすらあえて是認して、芦部信喜ら有力な憲法学者たちは、天皇及び皇族に課せられる人権の制約を選択的に明示していく。政府の説明によれば、この選択的な人権条項の適用は、憲法が予定しているものだとするが、明文化された文言上の根拠があるわけではない。憲法9条による自衛隊違憲論の場合と全く同じで、「芦部先生ら有力な憲法学者がそう言っている」という正当化事由、つまり一部憲法学者には至高の解釈者の特別な権能が宿っている、という固定観念に依拠した主張である。
象徴天皇制に関する基礎的資料 最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会
この事情は、日本国が批准している国際人権法を構成する条約が、憲法第98条2項によって誠実遵守義務の対象となっていることによって、いっそう複雑になる。「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(以下「自由権規約」)第2条は、「出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保すること」を定めている。「自由権規約」第14条「すべての者は、裁判所の前に平等とする」や、「表現の自由」(第19条)、「婚姻の自由」(第23条)などとあわせて、日本国憲法第98条2項によって誠実に遵守することが要請されている規定である。
つまり国際法上は、「日本では絶対的な権力を持つ主権者は『国民』なので、『国民』は非『国民』に対して『自由権規約』で定められた権利の行使の制限も行うことができる」、と主張することはできない。したがって憲法上も、少なくとも第98条2項と第1章諸条項及び皇室典範との整合性が問われる。
日本政府は、1980年以来、自由権規約の規定にもとづき、国内の立法措置の状況などに関する報告書を作成している。日本の自由権規約加入以来、審査機関である「自由権規約委員会」は、日本国憲法が定める「公共の福祉」の概念が、人権を不当に制約することはないか、という質問を出している。これに対して日本政府は一貫して、ない、と答えている(ちなみにこの40年間にわたるやりとりは新型コロナ対策としてのロックダウン措置の合憲性にも大きく関わる)。
幸いなことに、「自由権規約委員会」は、皇室典範による「皇族」に対する人権保障の制約について質問を出してきたことはないようである。だがもし質問されたら、日本政府はどう答えるのか。「偉~い芦部先生がそうおっしゃっていることですから」といった主張は、国際社会では通用しない。
皇室典範第11条は、「年齢十五年以上の内親王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる」と定めるが、三権の長ら10名で構成される「皇室会議の議」を経なければならない以上、自由意思だけで簡単に皇族から離脱できるとみなすことはできない。
日本の「天皇制」は、「主権の存する日本国民の総意に基」いて維持されている一つの国家制度である。そこに「国民の総意」が反映されるべきであることは確かだ。他方、人権保障の観点からは、絶対主権論一辺倒で乗り切ろうとする法解釈論には、限界がある。自由権規約第2条3項は、「権利又は自由を侵害された者」に対する「司法上の救済措置」の必要性を定めている。皇室典範と自由権規約、日本国憲法と国際人権法の間の繊細な関係は、皇室の方々の善意の努力によって支えられているとも言える。
憲法制定から70年以上の月日が流れている。素朴な私見では、自由意思の範囲を広げて人権保障を確証しつつ、「皇族」の定義を調整して制度維持を図ることが必要になってきているように思われる。私のような素人には、それ以上のことは言えない。しかし人権保障の観点からも、制度維持の観点からも、今回の眞子さまの一件は、矮小化して理解すべきではないように感じる。