昨日、「眞子さま問題で考える憲法学者独裁主義の陥穽」という題名の文章を書いた。
私は憲法9条の「ガラパゴス解釈」で一貫して日本の憲法学通説を批判し続けている。その流れで、こういう題名にしてみた。だが、ちょっとややこしい言い方だったかもしれない。
もう少し一般論としての言い方に近づけてみると、眞子さま(眞子内親王殿下)問題で問われているのは、「憲法の国民主権」と「国際法上の人権」の相克だ、ということである。
「天皇制」は、日本国憲法で定められた日本の国家制度の一部である。皇室典範で定められた「天皇制」を支えるものとしての「皇族」も、憲法第2条で皇室典範の存在が参照されていることを鑑みると、憲法で定められている「天皇制」と不可分の関係にある制度だと言える。
日本国憲法は、その第1条で、天皇の「地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と定めている。最高の権威・権力を持つ「主権者」が国民で、「天皇」はその主権者たる国民の意思に依存して存在している国家制度だ、という意味である。
この観点から、皇室のあり方について、多くの国民が他人事ではなく意見を持つのは、おかしなことではない。皇室に対する税金の支出のあり方について国民が関心を持つのも、奇異なことではない。なんといっても、その「地位は、国民の総意に基く」と憲法で定められているのだから。
だが歴史的な経緯もあって誕生した「日本国憲法下の天皇制」という制度の特殊性は、主権者・国民の意思に服する国家制度が、出生による世襲を前提にして成立している点にある。
たとえば内閣総理大臣が、ヤフコメ欄の誹謗中傷で悩んでいても、たいていの人は、「そんなに総理の地位が嫌なら辞めたら?だいたい貴方が自分で好んで立候補したんでしょう」という気持ちをまず抱くだろう。
ところが出生の事情によって世襲した地位にいるがゆえに悩んでいる皇族の方に対しては、少なくとも内閣総理大臣と同じ感慨を抱くことはできない。自らが望んでその「地位」に就いた、という、自由主義社会の隅々にまで適用されているはずの大原則が、「日本国憲法下の天皇制」についてだけは適用されていないからである。そこで、多くの人々が、ヤフコメ欄の誹謗中傷について、違和感を持つことになる。「他者の人格をもっと尊重すべきだ、木村花さんの事件の教訓が生かされていない」という感慨は、人権論の観点からは、全く正当な態度であろう。
憲法学だけの観点から言えば、「国民が主権者だ、主権者は絶対権力者だ、主権者の命令は絶対服従だ」という論理構成で、あとは「皇族は国民ではない」とさえ付け加えれば、話を終わりにできる。皇族の方が、ヤフコメ欄の誹謗中傷で悩んでいたとしても、「絶対権力者としての主権者・国民がそういう制度を作ったのだから仕方がない、ちなみに皇族は国民ではない」と言ってしまえば済むことになる。
だが国際人権法の観点から言えば、皇族の方々も同じ人間であるので、出生による差別待遇に起因する不当な誹謗中傷は許されない。いくら日本の憲法学者が、「日本の憲法学会では憲法優位説を通説としているので国際法が何を言おうが、そんなことは知ったことではない、ちなみに憲法学者が作り出した憲法三原則なるものの一つは国民主権で、憲法学者としては主権とは絶対的な権力だと決議している」、と主張したとしても、国際法上は、そのようなガラパゴスな主張は認められない。
欧米諸国の立憲主義では、主権と人権は、調和させるべきものだと理解されている。本来は、日本国憲法も、第98条2項で国際法を誠実に遵守することを要請しているので、憲法上の主権と国際法上の人権の調和を求めていると理解するほうが正しい。ただ、日本の憲法学者が、「国民だけに基本的人権が保障されている、そして皇族は国民ではない」、といったことを主張するので、国際法にも合致した正しい憲法典の解釈ができなくなっている。
「主権は絶対的な権力だ」、「基本的人権があるのは国民だからだ」、と主張したうえで、「ちなみに主権者・国民が何を望んでいるかについては至高の解釈者である憲法学者が解説いたします」、と付け加えるので、適切な条文解釈ができなくなるのは、憲法9条解釈をめぐる問題と同じ「ガラパゴス憲法学」の弊害の構図である。
眞子さま問題については、理論的な図式と、政治イデオロギーに起因する日本国内の人間的な対立構造がずれていることも、大きな特徴である。
日頃は皇室に好意的な意見を持つ右派層が、適正と信じる制度の維持の観点から、眞子さまの婚約者ら当事者に批判的な態度をとりがちになっている。これに対して、日頃は皇室に批判的な意見を持つ左派層が、制度不信の観点から、あるいは積年の政治的対立者をあらためて非難するために、当事者を擁護する態度をとっている。
日本の憲法学者は、実態として日本の左派層の中核を形成しているので、眞子さま問題のような場面では、憲法理論と政治イデオロギーが又裂き状態になり、沈黙せざるをえなくなる。
昨日も書いたが、素朴な私見では、自由意思の範囲を広げて人権保障を確証しつつ、皇族の定義を調整して制度維持を図ることが必要になってきているように思われる。
いずれにせよ、この問題は、憲法学者に任せていても、解決されない。主権者を代弁する「正当に選挙された国会における代表者」が、憲法と国際法を調和させる適切な措置を導入するしかない時期が近付いていると思う。
折しもアフガニスタンの混乱を見て、2001年に王制を復活させることができていれば・・・という議論を見かける。実際には、アフガニスタンの場合には、2001年の時点で王制が廃止されてしまってから28年もたっていたので、復活は難しかった。
日本の歴史を見るならば、戦後に天皇制が日本国憲法体制と両立する形で維持されたことの意義は計り知れない。日本の平和構築の成功の鍵の一つだったと言ってよい。「日本国憲法下での天皇制」は、今後も維持していくべき大事な国家制度だろう。だがすでに70年以上が経過している。制度面での検討が必要になっているとしたら、そういうこともあるかもしれない。一連の騒動をふまえた「日本国憲法下での天皇制」を維持発展させるための努力を、前向きにとらえていきたい。