情報洪水に溺れる就活生

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多いことは善いことである

新規大卒就職者の約3割が3年以内に離職する「3年3割問題」は平成7年以降から今も継続している。高校生の場合は約4割にも及ぶ。

早期離職の問題に、大学や高校は「情報提供」を解決策として実践してきた。子ども達は職業や企業を知らない。だから極力多くの仕事を知らせれば、比較検討でき、ミスマッチを解消できるのではないか、という目論見である。専門業者の手も借りながら、時には社会人を招いて講演なども実施し、2000年頃から手厚いキャリア教育が施されている。しかし、それでも、一貫して早期離職は止まないのである。

情報洪水の恐怖

なぜか。大学で学生支援に従事ずる身として、現場でどのような声が学生から挙がっているか、きちんと知らせておく責務を感じている。彼らは、情報洪水に溺れている。どれだけ情報が提供されても世の中には何万という職業があり、何百万という企業がある。それらの情報を全て知り尽くすことは物理的に不可能である。

にもかかわらず、情報が提供されればされるほど、情報収集の重要性が宣伝され、彼らに「知らないと決めてはいけない」という恐怖感を植え付け、盲信させている。選択肢が多すぎると却って選べなくなるという選択のパラドックスは、就職でも同様の現象である。

社会とはお化け屋敷

知ることはもちろん重要である。しかし、同時に、知らない物事や知らない状態でも挑戦する気概も重要である。心配性の学生からすれば、未知なる社会はお化け屋敷のようなイメージである。どんなゾンビが出てくるか分からず、想像すればするほど過度な不安に駆られる。そんな彼らに、「自分を分析せよ」「企業を研究せよ」といくら叫んでもナンセンスである。

それよりは、「毎年数十万の先輩たちがお化け屋敷に入っており、それでも何とか生き抜いている」と背中を押してあげるだけで一歩踏み出せることも少なくない。行動の手前での過剰な分析・計画が、却って行動にブレーキをかけてしまうのは本末転倒である。

知ることの重要性を説き、情報を与え続けるのは結構だが、いざ知ることができない状況や情報がない場合に身動きがとれなくなっては意味がない。

不完全情報での踏み出し

どのみち、完全情報を揃えることは不可能である。たった一つの職業にしても、365日のスケジュールは体験できないし、組織や人によって仕事の内容や感じ方は千差万別である。たとえインターンシップなどを通じて疑似体験や想像はできても、そこで働く当人が感じる肉体的疲労も精神的高揚も完全には実感できない。

つまり、どこまでいっても不完全情報のなかで決めねばならないのである。全体像を知れたと思っても実際にはごく僅かのピースしか集められていないのだから、いざ働いてみてギャップを感じ期待外れだったからと離職するのも肯ける。知ることへの期待値を引き上げ過ぎているからだ。

大学や高校がしなければならないことは、仕事について「なるべく多くを知らせる」とともに、「知らなくても飛び込める」スタンスとスキルを装着することではないだろうか。