東フィル×バッティストーニによる11月定期3公演のサントリー初日。人気の公演で、オケ側のP席まで客席がほぼ埋まっていた。
曲目は前半がバッティストーニ作曲フルート協奏曲『快楽の園』~ボスの絵画作品によせて(2019)。後半がチャイコフスキー『交響曲第5番 ホ短調』。コンサートマスターは三浦章宏さん。
バッティストーニの盟友トンマーゾ・ベンチョリーニがフルート・ソロで入った新作は、「天地創造」「エデンの園」「地獄-カデンツァ」「庭」で構成される35分ほどの作品。調性はあるようで、浮遊しているようで、ここぞというときはプッチーニ風のメロディアスなフレーズが噴き出す。ベンチョリーニのフルートは「青い鳥」のようにホールを飛び回り、遊戯的。ユーモアや驚きを含んだ楽想が映画音楽のように流れていく。バッティストーニ特有の、音量がハードロック的に増幅する展開も健在。ボスの絵は奇想天外でカラフルだが、バッティストーニがこの絵をテーマに曲を書こうとして理由が分かるような気がした。彼がマーラーで一番好きだという「夜の歌」に通じる、少しグロテスクで「どこを拾っても細部までレンズの焦点が合っている」世界だ。
バッティストーニの作曲は、少し前に演奏された狂詩曲「エラン・ヴィタール」のように哲学的だったり、今作のように絵画的だったり、人文学アートと関連が深いが、共通しているのは「とても温かい感じがする」ということ。
楽曲の細部に関しては、既に記憶が薄れた箇所が多く、もう一度聴きたいところだが、作曲家としてのバッティストーニがとても人間的で愛に溢れているということは、このフルート協奏曲で実感できた。
「類は友を呼ぶ」なのか、ベンチョリーニもとてもいい人で、日本語で挨拶とアンコールの曲紹介をし、バッハの「無伴奏フルートのためのパルティータ」から「サラバンド」を演奏した。内容のあるテクニシャンで、ベルリン交響楽団での初演(デヴィッド・ロバート・コールマン指揮)でも彼がソロを務めている。
後半のチャイコフスキー5番は、1楽章の出だしから「なるほど」と思った。ボスの絵のように、マーラーの7番のように、細部が異様にはっきりとした演奏で、管弦打ともに各パートが楽器のもつキャラクターを少し極端なほど際立てていた。プレイヤーは磨き抜かれた「部品」のようなサウンドを投げ合う。そのことで、膨大なエレメントが時計仕掛けのように組み合って、この5番が出来ていることを理解させられた。
各パートががお互いの音をよく聴き合って、団子のようにくっつきあうのではなく、分離した音を出している。それを溶接しているものは何か。それこそが作曲家の魂だ。
バッティストーニは前半の自作では、「どうしても愛にあふれ、地上的な温かさに溢れてしまう」自分自身を表したが、無意識のうちに「作曲家は何も隠せない」という真実を露にした。チャイコフスキーと並べることで、それはどうしようもなく鮮やかになった。
プレイヤーたちが奏でる貴重な断片は薔薇窓のようになり、その美がどのように継続していくのか追っていくと、すぐさま次の楽想によって破壊される。こういう言い方は詩的すぎるのかも知れないが、意図的にせよそうでないにせよ、チャイコフスキーがこの曲で表したのは、自らの愛の悲劇性だと感じた。
作曲家自身が「あざとい作り物」と呼んでいた5番は、ベートーヴェンの5番を構造的に模していて、ベートーヴェンがシンフォニーの大団円で彼の本質である「死をも乗り越える祝祭的な楽観」を成就するのに対し、チャイコフスキーでは真逆のものが露になる。
ベートーヴェンでは、ロジカルに積み上げられたモティーフが肯定性によって勝利したのに、チャイコフスキーでは「もうだめだ」「先には破滅しかない」「このままでは生き延びることは不可能だ」という悲観が溢れ出す。
1楽章から、極端なディミヌエンドが音楽を途絶える寸前までにする瞬間があったが、あれは「悲観に溺れたチャイコフスキーの断末魔の溜息」なのではないかと思った。チャイコフスキーはメランコリーに侵され、自己を、人生を放棄したい。その根底には、やはり愛の問題がある。迫害され、脅迫され、その先に、遺書としての「悲愴」があった。
虫の息のようなpppもあれば、他の大部分の楽章では、音楽はかなり暴力的に激昂する。1楽章だけでも凄まじいジェットコースター状態で、精緻な数式と化学式が内蔵されたクレイジーな楽想が、その都度ぴったり辻褄を合わせる。モーツァルトはこうしたいたずらを、いかにも遊戯的にやる。チャイコフスキーはモーツァルトが好きで「モーツァルティアーナ」のような曲も書いた。
しかし結局、ベートーヴェンもモーツァルトもチャイコフスキーではない。作曲家は曲の中で嘘をつけないので、チャイコフスキーは人をあざむこうとして、結局馬鹿正直に自分の魂を見せてしまっている。自分の罠にはまってしまったのだ。
聴いていて、厭世的なチャイコフスキー的人物…オペラ『エフゲニー・オネーギン』のオネーギンと、『スペードの女王』のゲルマンを思い出した。チャイコフスキーもゲルマンのように、ギャンブラーとして音楽と戯れようとしたのだ。この5番の初演がサンクトペテルブルクで成功したとき、チャイコフスキーは「こんなものが成功してしまうとは」と自嘲気味に書いている。実際によくできた手品であり、優美なワルツもあり、奥深く魂に触れようとしなければ、輝かしい勝利の名曲であり続けたに違いない。
魅惑的でどうしようもなく破滅的な2楽章では、ホルンとオーボエの完璧さに頭が下がった。首席ホルンは、指揮コンクールの予選のベートーヴェンの2番でも、12回の演奏中、一度も真剣でない音は鳴らさなかった。東フィルのホルンは世界一信頼できる。3楽章のワルツは何百回聴いても飽きない。『エフゲニー・オネーギン』の3幕の、オネーギンとタチヤーナが再会するサンクトペテルブルクの舞踏会を連想する。不穏なアクセントと、1拍目のひび割れた管の音は、ラフマニノフがチャイコフスキーから継承している。
凄かったのはフィナーレ楽章で、チャイコフスキーが高度な知能の限りを尽くした細工が勢いよく堰を切って、インフレーション的に狂騒した。ベートーヴェンは栄光のフィナーレのために音を積み上げたが、チャイコフスキーのフィナーレは地獄落ちのようだ。コンマスの三浦さんをはじめとするオケ全員がバッティストーニが「読んだ」チャイコフスキーを全身全霊で表した。これは果たして本当に凱旋の音楽なのだろうか。危険なギャンブルに負け、スペードの女王に呪われたゲルマンの影がちらついた。ラスト10分は、チャイコフスキーのクレイジーな男性性に圧倒され、こういう苛烈な世界には女はついていけないと思った。激しすぎるし、呼吸ができないし、平和のかけらもない。
そういう音楽を作っているのが、平和な心をもつバッティストーニであることに、ひどく感動した。安息を知る者が、他人の不幸を表現できないというのは嘘で、天使の心をもつ指揮者は作曲家の地獄落ちを、どこまでも詳細に描き尽くした。
本編終了が8時45分。そのあとなんとアンコールがあった…バッティストーニ編曲のリスト『巡礼の年』第2年イタリアよりサルヴァトール・ローザのカンツォネッタが、ラブリーなタッチで演奏された。バッティストーニはチャイコフスキーの地獄落ちを演奏した後、再び聴衆をみずからの楽園に招待したのだ。
編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年11月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。