2001年9月11日に発生した、米同時多発テロ(「9.11テロ」)。
約3000人が犠牲者となり、ブッシュ米政権はテロの首謀者オサマ・ビンラディンとその過激組織「アルカイダ」討伐のため、「テロとの戦争(WaronTerror)」を開始した。ビンラディンをかくまっていたとされる、イスラム主義組織タリバン政権下のアフガニスタン侵攻(01年10月7日)がこの戦争の第一歩となった。
それから約20年。
選挙によって選ばれたアフガン政権は崩壊し、タリバンが復権している。
今年8月末までに、駐留米軍と北大西洋条約機構(NATO)加盟軍はアフガニスタンから撤収したが、最終撤収日が目前に迫る中、多くのアフガン市民がカブール国際空港や隣国パキスタンとの国境に押し寄せた。タリバンが復権すれば、女性の権利侵害や公開処刑など人権侵害に当たる恐怖政治が再来しかねない。飛び立つ飛行機を追いかける人々の様子が世界中に報道された。
一体、この20年は何だったのか。
歴史をさかのぼって、テロとの戦争の意味を考えるため、ジャーナリストの外岡秀俊氏にテレビ会議ソフトZoomで話を聞いた。外岡氏は元朝日新聞東京本社編集局長。新聞記者時代は米国および欧州で駐在経験があり、中東での取材も数多い。
異なる3つの戦争
―米ニューヨークに駐在していらしたのは、いつ頃でしょうか。9.11テロの前あるいは後でしょうか?
外岡氏:ずっと前です。1989年から93年にかけてです。当時、湾岸戦争(1991年)があって、その時に米軍の拠点があるサウジアラビアの都市ダーランに1か月ぐらいたんです。中東にかかわるようになったのは、その時以来です。
湾岸戦争とは:1990年8月、イラク軍がクウェートに侵攻し、国際社会はイラク軍の撤退を求めた。しかし、イラク政府が応じなかったため、国連安全保障理事会の武力行使容認決議を後ろ楯に、1991年1月17日、米軍を主力とする多国籍軍がイラクへの空爆を開始し、湾岸戦争が始まった。2月24日、地上戦が開始されたが、同月28日クウェートからイラク軍が敗走し、戦闘が停止された。(コトバンク他)
―この時は開戦時に国連の支持があったということでしょうか。
12に及ぶ国連決議で武力行使を容認しました。クウェートにいるイラク軍を撤退させることがマンデート(委任された権限)でした。
地上戦が終わって、お父さんの方のブッシュ米大統領(在職1989-93年)はイラクが降伏したということで、撤収したんです。武力行使の目的がはっきりしていました。国連が全面的に多国籍軍を承認する形でした。
1989年の冷戦崩壊ということもあって、国際社会が1つになって、多国籍軍にお墨付きを与えるという、ある意味では珍しい行動だったんです。
ところが、2001年の9.11以降、アメリカはアフガンにNATO軍と一緒に介入し(01年10月)、2003年のイラク戦争においては、国連安保理決議が採れなかったものですから、米英軍が単独で侵攻に踏み切るという形をとったわけです。国連によるお墨付きもなかったし、NATOによる支持もなかった。
そういう点で、この3つの紛争(湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争)はかなり違うんです。
―湾岸戦争は国連安保理決議で裏打ちされ、国際社会でも支持されていたので、ご自身も開戦を支持していたということでしょうか?それとも疑問をもたれていたのでしょうか。中東からすると、違う視点が見えることがありますね。
戦争は戦争ですから、いくら国連のお墨付きがあるとは言っても、いざ始まってしまうと、とにかく殺りくをするということですから。
―必ずといっていいほど、人が殺されます。
そうです。
米軍はベトナム戦争(1955-75年)の手痛い記憶がありました。
ベトナム戦争は初めて茶の間に戦争の映像が流れた戦争と言われていますけれども、当時、いろいろな記者が敵方に入って、敵の攻勢や米軍がどういうことをやっているのかということを暴露するわけです。
これによって国内でも反戦気運が高まるという事情があったので、米軍はそれを教訓として、グレナダ侵攻(1983年)、私も取材したパナマ侵攻(1989年)とか、ベトナム戦争以降の紛争において、従軍(エンベッド)の取材方式を取るんです。
「エンベッド」とは、ある部隊に記者が張り付くのですけれども、事前に当局が記事をチェックして、グラウンドルールから外れるものは、検閲して、流させないという方式です。
湾岸戦争と世論誘導
湾岸戦争では初めて「スマート爆弾」(精密誘導兵器の1つで、レーザー光線やテレビカメラを利用し、目標に爆弾を誘導する)が使われて、CNNが繰り返し報道して、精密爆撃しているとか、綺麗な戦争をやっているというイメージづくりをしたわけです。
ある意味では、そういう世論誘導が初めて行われた戦争だろうと思うんです。
―何十年も前からそのような、世論誘導の構図が続いてきたわけですね。
19世紀以来、ずっとそうです。
―アメリカというと、正義のために闘う国、正しいことをする国というイメージが少なくとも私にはありました。自分が大きな疑問を感じるようになったのは、テロとの戦争からです。
ジョン・ダワーさんという歴史家が、第二次大戦中、日米両国がいかに相手を煽り、互いをけだもののように描いたかを指摘しています。
―プロパガンダですね。
少しも変わっていないですよね。
―そうすると、冷静に、批判的精神を持ちながら、アメリカと付き合っていかなければならなかったわけですね。
そうですね。
私は第1次湾岸戦争の記憶、経験があるので、アメリカはプロパガンダをする国であり、非常にプロパガンダに精力を注ぐ国であるということを知っていたので、アフガン戦争(2001年)の時も、イラク戦争(2003年)の時も、かなり懐疑的に見てました。
―朝日新聞の編集部の中では、当時、そういう懐疑心は共有されていたのでしょうか。
いや、されていません。米軍がアフガン攻撃のために東京湾から出るときに自衛隊の護衛艦が警備したわけですよ。
―加担しているわけですよね。
法的な根拠がないわけです。
私は社内ではかなり少数派でしたけれども、法的な根拠なくして軍を動かすべきじゃないという意見を持ってました。
日米安保条約を拡大解釈するべきだという人もいました。だけど、日米安保条約というのは、5条と6条の2カ所につきるわけですけれども、日本の国土の施政権の範囲の中で起きた武力行為において共同対処する、という取り決めですね。
日米安保条約の第5条、6条とは:
第五条各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
第六条日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
だから、アフガンで起きたこと、あるいはアメリカで起きたことはいくら同盟関係にあっても、安保条約を根拠に支援することはできないわけです、日本国以外で。
そういう意味では、自衛隊はインド洋で給油支援するわけですけれども、当時は法的根拠がないと紙面にも書きましたし、社内でもそう言っていました。
自衛隊の中東派遣とは:2001年に米同時テロが発生すると、当時の小泉純一郎首相が米国への支持を表明。テロ対策特措法の制定後、インド洋での多国籍軍への給油のため、海上自衛隊の護衛艦や補給艦を中東に派遣した。03年のイラク戦争では、イラク特措法を根拠に陸上自衛隊をイラクに送り、人道復興及び安全確保支援活動を行った。陸自はイラク南部サワマの宿営地で活動し、2006年に撤収。航空自衛隊は2008年12月まで輸送活動を支援した。(日本経済新聞、防衛省・自衛隊他)
―政治家はいつも日米安保条約の拡大解釈を主張しますね。
湾岸戦争の後、「アメリカの肖像」とか、いろいろな連載の中で、当時闘っていた米軍司令官に話を聞きに行ったことがあるんですけれど、一説には、第1次湾岸戦争で、10万人ぐらいイラク兵士が死んでいるんですけれども、イラク側の死者がどれぐらいあったと思いますかと聞いたら、「敵の(犠牲者の)数字をカウントするのは、我々の仕事ではない」と。「我々の仕事」とは、「自分たちの死者をカウントすることである」と。
見事に軍の本質が出ていると思いましたね。
―9.11テロは自分にとっても大変な衝撃でしたが、国際テロ組織アルカイダやその指導者オサマ・ビンラディンらによって、その前からテロが複数発生していました。あのようなテロが起きる下地があるということを感じていらした?
そこまでは考えていなかったですが、少なくとも、タンザニアやケニアでアメリカの大使館が爆破されたりとか、かなりの実行力を持ったテロ集団がいるということは感じていました。
たまたま、その前に、私は何年かにわたってアフガン情勢のことについて国連関係者からブリーフィングを受けていたので、タリバン、あるいはそれがかくまっているアルカイダというものがどういう集団であるか、ある程度、わかっていたわけです。でも、それが9.11テロになるということは、全く想像していなかった。
―9.11テロの実写などを見ると、あれほどの準備力、組織力に驚かざるを得ませんでした。米ブラウン大学によると、約90万人がテロの戦争で亡くなったそうです。9.11テロの犠牲者は約3000人ですが、これよりもはるかに大きな数字の方が亡くなりました。どう見ていらっしゃいましたか。
あの時、社説は「ノー、バット・イエス」だったんです。要するに、やむを得ないというニュアンスで、私はその時は論説委員じゃなかったので、論説委員を渡り廊下に呼び出して、「これはおかしいだろう」、と言いました。少なくとも、アメリカがやるのは仕方ないにしても、日本の新聞が、憲法上の根拠とかを一切なしに支持するような社説を掲げるのはおかしい、と。(社説記事が)出た後だったんですけれど。
明確に反対するべきだ、と思っていました。もちろん、米軍がやることについては、それは止められないかもしれない。だけれど、時の政権を支持するわけですから、その責任とは一体どういうことかということを分からないまま、それに賛同するような、水門を開けるようなことをしてはいけないんじゃないですか、と強く言いました。
―当時は、反対するメディアは少なかったのではないでしょうか。アメリカに対して、世界中から痛みへの共感があり、米国内でも戦争支持の声でいっぱいになりました。反対する声はほとんどなかったか、出しにくい雰囲気だったのではないでしょうか。
そうです。
当時、9月は日本にいて、米軍が限定攻撃するという記事を書いて、その後、アメリカからイギリス、フランス、イスラエル、イランを回って、最終的にアフガンに行きました。
アフガンで年末を迎えたんですけれども。ニューヨークで始めて、アフガンで終わるという、その時に世界がどういう反応を示したのかをルポして回ったんです。
私がよく知っているアメリカ人がハワイにいて、最初に出発する前に彼の反応を聞いたら、それまでアメリカの軍事行動についてかなり批判的な目を持っていたジャーナリストが、ブッシュ大統領の演説は素晴らしいと言っていました。それを聞いて、愕然としました。
彼が言うには、第二次世界大戦の真珠湾攻撃以来、あの時はハワイでしたけれども、アメリカの本土が攻撃されるのは初めての経験だ、と。だから、みんなが大統領の下に団結しなければ、危機は乗り越えられないという反応だったんです。
その時のアメリカ人の恐怖とか、不安とかは、かつて敗戦の経験がある日本とかドイツとかからすると、考えられないです。
9.11テロ後、「パラダイムが変わった」
―9.11テロ後、米国から多くの学者が英国に来て、イベントやテレビに出ていたのですが、「パラダイムシフト」、「パラダイムが変わった」とよく言っていたことを覚えています。アフガニスタンの雰囲気はどうだったのでしょう。攻撃される側の国の状況ですが。
あの時、2か月で米軍は攻勢して、カブールを支配するわけです。その時の内幕をワシントンポストの記者ボブ・ウッドワードが『ブッシュの戦争』(日本経済新聞社)という本に後でまとめましたけれども。その本にそのまま書いてあるんですけど、CIA(中央情報局)が馬に乗って地方に侵入して、部族長に現金を配っているんです。部族長は次々に寝返っていくわけです。要するに、勝ち馬に乗るわけでしょう。だから、簡単に、2か月でタリバン政権がひっくり返ったわけです。
アフガニスタンは、首都カブールが近代都市ですけれども、それ以外は近代化が進んでいない地域で、地方は軍閥が支配しているんです。
周辺国のタジキスタン、ウズベキスタンなどと人の出入りがあって、パキスタンとの国境付近の両側にパシュトゥン人が住んでいます。各地域に部族があって、分断していて、通行料を取って麻薬の原材料になるケシを栽培して、それを軍資金に使っているわけです。その構図が20年経っても、全然変わらない。
今回は、私はあっという間に陥落すると思いました。
バイデン政権は過去の歴史を学んでいないのか、と思いました。
5月時点からタリバンの攻撃が始まっていて、州都が次々に陥落しているのに、カブールに(タリバンが)入れないことはない。それを計算しないで、しかもNATOにも相談せず、NATOの加盟国が(完全撤収を)「止めろ」、「絶対に見合わせろ」と言っているにもかかわらず、見切り発車となっているわけでしょう。
―「おごり」という言葉がこちらでは良く使われていますが。過去を学ばないのは理解を超えていますね。
理解を超えています。
もともと、アフガンに米軍が侵攻して、制圧した後に、国連がボン合意を結んで、暫定政権ができて選挙をやるわけですが、その決め手になるのが、国連のお墨付きを得た多国籍軍がそれを支える、という点でした。
ボン合意とは:2001年11月、国連がドイツ・ボンで招集した国際会議で決まった、アフガン暫定政府の樹立と安定に向かう手順についての合意(2001年12月5日締結)。
ところが、アメリカは、これを全土展開することに反対しているんです。首都には(多国籍軍が)いていいけれども、(国連決議を基に結成された)国際治安支援部隊ISAF(アイザフ)が国軍と警察を養成するよう限定しているわけです。実質的には、国民軍は育たなかったわけです。
私は1986年、2001年、08年にアフガンに行きましたけど、08年に行ったときに、インフラの整備もまったく進んでないし、中心部もがれきの山で、「どうして、こんなに進んでいないんですか」と聞いたら、みんながいうには、外国の復興支援のおカネは皆、政権が腐敗していて、私(わたくし)化している、と。首都を一歩出たら、政府が養成した警察は、夜にはみんなタリバンになる、と。
ブッシュ政権は、過去の日本の占領統治を見ろ、と。あっという間に敗戦から米軍びいきになったじゃないか、と言ったんですね。
―でも、日本とアフガニスタンでは全然違う国ですよね。
アフガンは、大国が何度も攻め入ろうとしたけれども、結局最後は撤退するんです。イギリスは3回戦争をやっていますし、ソ連も10年間支配しましたけど、結局、負けて撤退するわけです。
2001年から、私が会った歴史家たちは、「米軍は必ず撤収する」、「敗退する」、と断言していました。
―今年1月に英上院がアフガニスタンの状況について分析した報告書を出しています。これによると、この時点ですでに国家が崩壊寸前であることを伝えていました。
アメリカは、破壊はするけれども、国づくりをするという気は全然ないんですね。ただ破壊して、自分の威力を見せればそれでみんな屈服するだろうという考え方をしますから。地道に国づくりに携わるというのは、多分、日本の占領以外ないんじゃないですか。
イラク開戦前、核査察問題で国際社会が割れた
―アフガニスタン侵攻の後は、イラクに向かうわけですけれども。国際社会の中で、イラクへの侵攻は違法であるという見方が強くありましたね。
その時、私はイギリスにいましたけれども、シラク仏大統領(当時、以下同)とシュレーダー独首相が明確に反対し、「いま開戦するべきじゃない」と。「もっと時間を尽くして、大量破壊兵器の査察をやるべき」と言ったわけですよ。
(2003年2月)ドビルパン仏外相が国連安保理の外相会合でそう言うわけですけれども。その時に、パウェル米国務長官が「決定的な証拠がある」と言って、スライドを見せた。
パウェルはイラクが大量破壊兵器を隠し持って開発していると説明するわけです。アルカイダとのつながりがある、アルカイダを庇護しているんだ、と。2つの理由をあげるわけです。
私はその翌日ぐらいにイギリスの安全保障の専門家に取材をして、その人が驚いていました。「こんなことを決定的証拠として出してくるなんて、こんな説得力のない開戦理由はない」と。おかしいんだ、ということを言っていました。
イラクの核査察とは:湾岸戦争(1991年)の停戦を決めた国連安保理の決議687にもとづく。イラクは、核兵器を含むすべての大量破壊兵器と中・長距離ミサイルを廃棄し、検証のため査察を受け入れる義務を負った。査察はIAEA(国際原子力機関)や新設のUNSCOM(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)が中心となった。2003年3月のイラク戦争開戦前夜、継続した査察を通じてイラクの武装解除を進めるべきというフランス、ドイツ、ロシア、国連査察団に対し、米英などはこれに合意せず、国連の同意が得られないまま、3月17日、ブッシュ米大統領によるイラクへの最後通告演説を経て、20日、イラクへの空爆が開始された
―のちの朝日新聞のヨーロッパ総局長の国末憲人さんが、フセイン末期にイラクに行ったそうですが、現状を見て、大量破壊兵器を作って、他国を攻撃できるわけがないと思ったそうです。アメリカ政府が無理をしていたところがありましたね。
私はその時、ロンドンから発信していたんですけど、ドイツやフランスは現地の情勢を知っていて、国末さんがイラクにいてパリ支局長に逐一報告してきたので、フランスは絶対屈しない、最後まで反対するだろうと思ったんです。原稿にもそう書きました。
そういう情報をどんどんあげていたので、社説もその時は独仏の方についたんですよ。これは大義のない戦争だ、ということを最初から認定したんですね。
ところが、日本の外務省の分析では、フランスは「最後は賛成する」と言っていたんです。完全な、見通しの勘違いをしていた。
私は割と早い時期から、大量破壊兵器はないというところに注目して、そういう原稿をずっと書きました。だから、デービッド・ケリーさんの問題が起きた時・・・。
デービッド・ケリー博士とは:英国防省顧問。2003年5月、BBCがイラクの脅威についての政府文書に誇張がある、と報道。政府文書は「イラクは45分以内に大量破壊兵器の実戦配備が可能である」としていたが、BBC記者は「脅威が誇張されていた」とラジオ番組で述べた。この報道の情報源とされたケリー博士は、同年7月、自殺した。
イラク戦争を何度も検証した英国
―皆、うすうす大量破壊兵器はないのではと思っていたところにBBCの報道があって、ケリー博士が自殺しました。検証には時間がかかりました。当時のブレア首相は開戦の決断について「正しかった」と言い続けています。
バトラー委員会やチルコット委員会で3度検証しているわけですよね。そこがイギリスのすごいところだと思います。
英国でのイラク戦争検証とは:2003年3月、下院外務委員会などがイラクの大量破壊兵器保有に関する情報の信ぴょう性や侵攻の合法性などを検証。その後、独立調査委員会が3つ設置された。(1)ケリー博士の自殺の真相究明を調査したハットン委員会は、2004年1月、「45分の脅威の誇張」はBBCの「誤報」と結論付けた。(2)イラク開戦までの諜報情報を調査したバトラー委員会は、2004年7月、「45分の脅威」の情報には「深刻な欠如があった」としたものの、イラク参戦過程におけるブレア政権の政治責任に関しては言及しなかった。(3)政治責任を含めて総括的な調査を行ったのが、チルコット委員会で、2016年、7年にわたる調査の後、イラク戦争開戦時の2003年3月の時点ではフセイン大統領からの「切迫した脅威」はなく、国連安全保障理事会の大多数が支持していた封じ込め政策の継続は可能だったと指摘。政府が得ていた機密情報は武力行使の正当な根拠となるには不十分で、外交手段を尽くしてもいなかった、と批判した。(BBCニュース、英国ニュースダイジェスト)
日本はサマワに自衛隊まで派遣しておきながら、結局は、あの戦争について大義があったのかどうかを検証していないわけです。それはすごく無責任なことだと思います。
何年か後に、ガーディアン紙が大特集を組んで、開戦の時にこういう発言をした人が、今どういう風になっているかを並べていました。政治家だけではなくマスコミ関係者も全部聞き出して。あの時、あなたはこういう風に発言していたけれど、今、どう思っているんですか、ということをやっているんです。
イギリスは言論責任をすごく大事にする国だし、BBCの報道も含めてイギリスのメディアのすごいところだと思います。
結局、日本は、ここでアメリカに貸しを作っておけば、いつかどこかで返してもらえるとか、親米関係を壊さないということ最優先にしているから、個々の軍事行動とか日本の参加の仕方ということについては突き詰めて考えていないんですよね。
―突き詰めて考えると、日米協定の存在に疑問が出てきて、まわりまわって現在の与党・自民党体制が崩れる可能性もあるのではないでしょうか。第二次世界大戦後、何十年も築いてきた、アメリカへの軍事的依存がもし崩れてしまえば、社会不安が発生するのではないでしょうか。
イギリスだって、それは同じで、「イギリスとアメリカは特別な関係にある」とずっと言ってきていますし、それはその通りなわけです。
でもだからと言って、イギリスが軍を出すときは、その軍事行動について独自にきちんと判断しなければいけないという、そういう見識は持っているわけです。
アメリカに付いていけばいいというのは、日本だけじゃないでしょうか。
―イギリスに住んでいて、よく考えるのですが、どちらの生き方が幸せなのか、と。幻滅感を持って、政治不信を感じながら生きるのと、人の後に付いて生きていく方を選ぶのか。ただ、人の後に付いていく選択肢しかないと、社会に閉塞感が増大するようにも思うのですが。
冷戦崩壊前は、日本は確かに同盟国だし、経済で密接にアメリカと結びついていたから、それはある意味で処世知というか、処世術として、ある意味正しかったでしょう。
だけれど、オバマ政権(在職2009-17年)の時に、アメリカはもう世界の警察官ではないと言ったわけですし、トランプ政権(在職2017-2021年)に至っては、今まで教師だったアメリカが、もう先生はやめたと言って、一緒にクラスに入ってきた。それで番長みたいになっていることになったわけです。
つまり、アメリカはもう警察官でも教師でもないと、自らが言っているわけですから。
自分の立ち位置や置かれた環境をよく考えた上で行動しないと、アメリカに付いてさえいれば、安全だという時代ではないです。
―そういう意味では言論の重要性がありますよね。実はこうであった、と記録していくことです。それによって、曇りガラスが晴れてくるように視界が開けてきます。
そうですね。「無意味な戦争だった」というのは簡単なんだけれども、無意味な戦争が引き起こした混乱というのは、一体どんなものだったのかということを、アメリカは、そしてアメリカを支持した日本人はもっと深刻に受け止めなくちゃいけないと思うんですよ。
結局、イラクを攻め落として、空白状態が生まれたために、シーア派中心の政権作りになって、(イスラム主義の過激派組織)「イスラム国」が生まれたわけです。
―アメリカは、自分で原因を作っている面があります。
シリアの内戦はそれに関連しているわけですから。
シリア内戦とは:2011年以降、中東諸国で広がった民衆化運動「アラブの春」が、独裁政権が続いていたシリアにも波及。政府側と抗議デモを行った市民側との対立が内戦に発展した。米国、トルコ、サウジアラビアなどが反体制派を支持し、イラン、ロシア、中国がシリア政府を支援。2013年頃からは、「イスラム国」などの過激派組織が台頭し、紛争はさらに泥沼化していった。(参考:「国境なき医師団」)
中東を無茶苦茶にして、混乱に陥れたという点では…アフガンの戦争もそうですね。最初は1979年から89年まで旧ソ連が支配をして、それを脅かすために、CIAがパキスタンの難民キャンプからムジャヒディンに資金や武器を提供していたわけです。1989年にソ連がアフガニスタンから撤兵すると、アメリカはCIAの支局長を帰させて、放置したわけです。
ムジャヒディンとは:イスラム自由戦士。アフガニスタンで社会主義政権の政府軍や旧ソ連軍と戦った反政府ゲリラ
アフガニスタンでは92年から94年まで諸派が分裂して、ムジャヒディン同士が内戦を起こしました。その混乱を制定するために出てきたのが、タリバンです。
最初は、戦争よりも平和になっているのだからよいと、皆がタリバンを歓迎したんですね。ところが、やがてそこにアルカイダが入ってきて、(アフガニスタンを)訓練基地にしたり、出撃基地にして、9.11テロにつながったわけでしょう。
フセインだって、最初はアメリカが支援しているわけですから。同じことをやっているんです。
イラク・フセイン大統領とアメリカ:
イラン・イラク戦争(1980-88年)で、アメリカはフセイン大統領下のイラクを軍事支援。1990年、イラクがクウェートに侵攻すると、アメリカは国連安保理の決議に基づき多国籍軍を編制、1991年1月、イラク攻撃に踏み切って湾岸戦争が勃発。2003年3月、アメリカはイギリスなどとともにイラク攻撃を開始した。徹底的な空爆と地上軍の侵攻により4月9日、首都バグダッドを制圧、フセイン体制は崩壊。フセイン大統領は、03年12月拘束され、2006年12月に処刑。(NHKアーカイブス等)
アフガニスタンを見捨てない
―アフガニスタンの今後なのですが、欧州の課題としてはアフガン難民の受け入れが1つあるかと思います。
ここでアフガンを見捨てると、同じことの繰り返しになりますから、いろいろな形で、国が以前のように戻らないように、プレッシャーをかけ続けないといけないですよね。
そのためには、タリバン政権を認めるか認めないのかという最終的な問題に行き着きますけれども、承認を急ぐのではなく、タリバンも国際的にどんな姿勢を取るのかを見極めながら、こういう条件で、これがレッドラインだから、ここを守らなければ、国際社会は認めない、と。そこで国際連携をしっかりしておかないといけないです。
アフガニスタンの周辺には影響が及ぶ国がいっぱいありますから。中国、中央アジア3カ国、イラン、パキスタン。そうした国の国際協調というか、少なくとも連携がないと、枠組みを作らないと、タリバンはもともとの原理主義が出てしまって、国民を犠牲にしてでも、自分たちの主義主張を貫こうとする、専制体制になります。女性を今まで通り差別する、とか。元に戻る危険性がものすごく高いです。
―アメリカが教師でもなく警察官でもないと宣言した今、国際的な協調の枠組みがまだ見えてきませんね。
ただ、中国が新彊(しんきょう)ウイグル自治区を抱えていて、ロシアも、国は別になりましたけれども、中央アジアから来るイスラム勢力が分離独立運動を起こしたり、テロを起こしたりというかなり深刻な問題を抱えているわけです。
アメリカも、これだけ地理的に離れていて遠いんだけれども、国際テロ組織の被害を受ける可能性が非常に高い。
少なくとも、米ロ中が深刻な問題を抱えていて、関心があるわけです。それが大きな一つのてこになるわけです。
パキスタンが自分たちの後背地を作りたいために、タリバンを養成したんです。最初は、ほとんどパキスタンの軍統合情報局(ISI)が作ったような勢力だったんです。カシミール紛争を抱えていてインドと対立しているから、いざという時にアフガニスタンに親パキスタン勢力を作っておきたい、と思ったわけです。
カシミール紛争とは:パキスタン北部とインド北西部にまたがるカシミール地方の帰属をめぐる、1947年以来のインドとパキスタンとの紛争。
そこの支援を断ち切らない限り、タリバンが勢力を握って、同じようなことをやる。インドにとっても脅威になるわけですから。ある意味ではみんなかかわっているんです。
―バイデン米政権はリードしていく、という感じではないですね。
そうですよね。今回のアフガニスタンからの駐留軍の撤収の例を見てもそうですし。
アメリカからすれば、対ロ戦争から、対中というライバルへのシフトということになり、資源など全てをつぎ込まなければならない、と。だからいつまでも(アフガニスタンに)かかずり合ってはいられない、ということです。
ただ、中国が今後の経済力や影響力を伸ばすための最大の戦略としている「一帯一路構想」ですが、これはアフガンが一番の中枢ですから。
シルクロードの昔から、中国とヨーロッパを結ぶ影響圏はアフガンを通らざるを得ないわけです。
そういう意味で、中国は何としてでもアフガンに影響力を及ぼしたい、と思っている。だけど、アフガンでタリバンが原理主義になった場合にそれが跳ね返ってきて、新疆ウイグルの分離・自治・独立問題に火をつけるんじゃないかということを同時に警戒している。
アメリカが対中国にシフトするというのだったら、もっとアフガンのこれからの政治・外交問題に真剣に取り組むべきなんです。
―アメリカは、他国を破壊した後のことは考えないのでしょうか。
少なくとも、ブッシュ政権(在職2001-2009年)まではそうです。
湾岸戦争からの30年間、何が違うかというと、今は無人攻撃機、ドローンが増えてきて、将来はロボットになっていきますが、これで攻撃をするようになってきました。自分のフットプリント(足跡)を残さない戦術に変わってきている。
もう1つは、医療技術の進展で、死ななくても済んだ米兵がたくさんいる。でも、負傷した兵士の大半は障害を負っています。ブラウン米大学の、戦費がこれだけに上ったというのは、一生涯、傷病兵たちの治療や療養に費やすお金を積み上げているんです。(朝日新聞記事:戦費費用は20年間で880兆円死者90万人)
死者は減っているんだけれど、負傷者はものすごい数がいる。その負担がアメリカでも、国内的負担として目に見えているわけです。
「攻撃して、破壊して、後はさっと撤収する」、というのではもう立ちかゆかなくなってきた。そこに今の戦争の現実があるわけで、それはアメリカ人も気が付いているわけです。
「正義を実現したから、良かった」と言えなくなっている。あまりにも負担が大きすぎて。(武力攻撃の結果が)ブーメランのように跳ね返ってきている。
そういう意味では、オバマ政権(2009-2017年)以来そうだったと思うんですが、トランプ大統領も意外にも軍事行動に慎重な大統領でしたが、バイデン大統領もその延長線上にあります。
オバマ政権以来、米軍がこういう風になってきているということが、今の戦争の現実がもたらした結果なんです。
ブッシュ(子供)大統領のときのように、アメリカがまた軍事力でモノを言わせないようにするのかどうかというと、それができにくくなっている。それが現実なんだと思います。
―戦争や紛争での心の面を含めた傷が政策レベルまであがっていけたら、それが歯止めになる可能性が出てきますよね。
そうだと思います。テロとの戦争から20年という時には、そのテーマ抜きには語れないです。
つまり、アメリカが間違った戦争をしたとか、根拠がない戦争理由に基づいてやったという、アメリカやイギリスを責めるだけじゃなくて、その後いかに大きな混乱をもたらして、今の中東の混乱を、アフガンの混乱をもたらしているのかということを踏まえた上で、じゃあ、これからどうするんだ、と。
この20年の戦略の失敗を認めた上で、これからどうするのかということを、考える1つの材料にする、ということです。
―過去から学ぶためには、何が起きたかを知らないと。
それも、この20年を見るだけじゃなくて、戦後、あるいはもっと早く言うと、19世紀ぐらいから・・・・。
ー19世紀以降、アフガニスタンは大国に何度も侵略されてきました。アフガニスタンの国民のことを考えた人がほとんどいなかった。今後も追っていきたいと思っています。
小林さんは(イラク戦争を総括的に検証した)チルコット委員会の話も含めてものすごく詳しく書かれてきました。(「英国で260万語のイラク戦争検証報告書、発表へ」朝日新聞「論座」2016年6月23日他)
それは、ものすごく大事な仕事なんです。日本は、あの戦争のことをほとんど覚えている人がいないぐらいの感じですよね。でも、やっぱり、きちんと検証している人たちがいるんだ、と。
結局、ブレアはイラク戦争の件で引退させられたわけですよ。
―本当に、「違法な戦争」と言われ、国内で大規模な反戦運動が起きたイラク戦争をブッシュ米大統領とともに主導していったことは重かったですね。開戦理由となった情報の信ぴょう性が低かったことも致命的で、「嘘つき」というあだ名が付きましたから。2005年の総選挙で労働党は勝利し、ブレアは3期目の政権を確保しましたが、イラク戦争への批判票も大きくなり、大幅に議席数を減らしました。2007年、ブラウン財務相に党首の座を譲りました。
言論がいかに大事か、民主主義がどんなに厳しいものかということを教えてくれる、手本でしょうね。
日本は明治維新来、ずっとイギリスを先生として頼んできているわけですから、途中ドイツに行ったり、戦後はアメリカに行ったりしましたけれども、やっぱり、イギリスから学ぶことがすごく大事なことだと思います。
―イギリスでは戦争が議論によくのぼります。第二次世界大戦の体験をしっかりと覚えている人が多いです。
イギリスは、ミュンヘン宥和政策に傾いて、ヒットラーの台頭を許した。あのとき、王室を含めて、親ドイツ派がいっぱいいました。
宥和政策とは:現状を打破しようとして強硬な態度をとる国に対して、譲歩することで摩擦を回避していく外交政策。ナチス‐ドイツの要求を認めたミュンヘン会談がその典型。
ミュンヘン会談とは:1938年、ミュンヘンで開かれたドイツ・イギリス・フランス・イタリアの首脳会談。ヒトラーの要求を入れてチェコスロバキアのズデーテン地方のドイツへの割譲を決めた。イギリス側の対独宥和 (ゆうわ) 政策の頂点を示すとされる。
―そうなんです。新聞界、エリート層がナチス・ドイツと非常に親しい関係にありました。
それを書いたのが、カズオ・イシグロさんの小説(『日の名残り』)でした。イギリスのタブーです。
『日の名残り』とは:1989年出版の小説。執事スティーブンスが小旅行をしながら昔のことを思い出す。彼の元主人は第二次大戦前の対独宥和主義者。1993年に映画化。
第二次大戦というのはイギリスにとっては、ものすごいむごい戦争で、あの時に宥和政策を取ったがために、結局こういう結果になってしまった。そこを耐え忍んで、最後まで屈しなかった。それが歴史的な体験になっていますから。
結局、イギリスは、アフガン戦争には負けましたけれど、戦争で負けたことがない国でしょう。
―そうなんです。
スエズ動乱の時に出兵して・・・。
スエズ動乱とは:1956年にエジプト・スエズ運河の管理などをめぐって発生した武力紛争。英・米両国がアスワン・ハイダム建設援助計画を撤回したことを機に、エジプトのナセル大統領はスエズ運河国有化を宣言した。これに反対して英・仏・イスラエルが出兵したが、国連の停戦決議やソ連の警告など国際世論に押され、1957年完全撤兵した。(コトバンク他)。スエズ事件を通じて、「国際情勢を意のままに操作できる大国」という英国支配層が持つ自画像は崩れ去ったと言われている。英国の外交上の最大の失敗の1つ。
―大失敗しました。あの時から、国際的信頼感を失ってしまいました。大英帝国の没落ですね。
英上院議員から直接聞いたんですけど、その時に、イギリスは教訓を引き出した、と。アメリカ抜きでは一切軍事行動はしない、と。フランスも教訓を引き出した。アメリカとは一切軍事行動を共にしない。
(イラク戦争開戦前に)ブレア首相が、見境なく「アメリカといっしょにやらなければ、イギリスはもたない」、と。しかも、仏独がEUの中で、これだけ開戦反対で強硬になっているのに、イギリスのプレゼンスを見せるにはもう開戦するしかない、とブレアが思うわけです。
99年のコソボ紛争の時もそうだったし、2003年も。彼は政治家の本能としては、ものすごく勘の鋭い人だけれど、まさかアメリカが根拠もなしにイラク侵攻をするとは思っていなかったわけです。
コソボ紛争とは:コソボは旧ユーゴスラビア連邦時代のセルビア共和国の自治州だった。1989年に共和国側が自治権を縮小し、90年代に連邦治安部隊とゲリラ組織「コソボ解放軍」を中心とするアルバニア系住民との武装衝突に発展した。99年、北大西洋条約機構(NATO)軍の空爆で治安部隊は撤退した。ブレア英首相はNATOの軍事介入を主導し、民族浄化や独裁国家の人権弾圧に対し、国際社会が積極的に介入すべきだという「人道介入主義」を提唱した。その後、コソボ独立への協議は難航し、2008年2月、コソボ共和国として一方的に独立を宣言した(朝日新聞デジタル、コトバンク他)。
―もしブレア首相がブッシュ大統領に賛同していなかったら、果たしてイラク戦争は開戦となったのかどうかと想像するのですが。
アメリカが、自分たちが攻撃されたときに、いかに感情的に攻撃的になるのかということをブレア氏は読み切れていなかった。まさかここまで無謀なことをするわけがない、と。そういう信頼関係に頼ってしまった。それで間違ったんでしょう。
当時、アメリカから英国の戦略研究所に移った人がいて、彼と話をしたら「アメリカ人がこんなに嫌われていることを、こっちに来て初めて知った」と。自分たちが世界だ、と思っているので(わからない)。
ヨーロッパ人が、アメリカ人に対して「何だ、あの行動は」と思っていることに敏感じゃないんですよ。鈍感なんですよ。
―不思議ですね。大使館も世界中にあるのに。聞いても、耳を通り過ぎているのかもしれません。
ブッシュ政権の場合は、自分に政治的に近い人を大使にしています。自分が親しい馬主をロンドンの大使にしたり、自分が経営していた球団の共同経営者を大使にしたり。そういう人事をやっていますから、まともなことができないわけです。
いかにジャーナリズムが大事か、ということです。
つまり、ジャーナリズムというのは、センサーですから。アメリカと一緒になって、現地の様子を伝えないでいたら、同じニュースが循環して、結局、外務省の本省が大使館から上がってくる情報を見て、新聞を見て同じことを言っていたら、チェックのしようがない。
いや、現地の様子は違うんだ、と。大使館はこういう風に見ているけれども、現地の政府は、あるいは現地のメディアはこう考えている、と。それを取ってきて、チェックするのが外国にいるジャーナリストの役割です。センサーですよ。
【外岡秀俊氏のプロフィール】
ジャーナリスト、北海道大学公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。最新刊『価値変容する世界』(朝日新聞出版)。翻訳書、ジョン・ダワー著『忘却のしかた、記憶のしかた日本・アメリカ・戦争』(岩波書店)
ウェブサイト「JCastニュース」で「外岡秀俊の『コロナ21世紀の問い』」を連載中。第44回目「タリバン政権のアフガンは再び震源地になるのか」では「アフガンの民主体制作りに携わった国連の元政務官・川端清隆福岡女学院大特命教授にインタビュー。(筆者のヤフー個人ニュースページから転載)
編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2021年11月4日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。