マスコミは権力を監視しなくてよい

先の衆議院選挙の報道を見て改めて思ったことはマスコミは権力を監視しなくてよいということだ。マスコミがすべきことは権力を監視することではなく評価することである。

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マスコミの役割が「権力を監視する」だと「監視」という言葉の語感から「マスコミ→権力」の一方的なコミュニケーションが肯定され、それは即ちマスコミの関心・質問事項について全て回答義務があるかのように錯覚されてしまう。

しかし、マスコミの関心・質問事項が妥当だとは限らない。国民の幸福にとってなんら価値のない質問に政治家は答える必要はない。時間の浪費である。

時間の浪費しか生じさせないマスコミの権力の監視の名の下による一方的なコミュニケーションを避けるためにも監視ではなく評価が重要である。

そして評価を考えるうえで重要なのは評価対象の活動目的である。

日本国憲法下の統治機構の活動は全て法を根拠とする。そしてその法には統治機構の活動目的が明記されている。もちろん権力とは統治機構に限られないが、日本のマスコミが関心を抱く権力の多くは統治機構と考えてよい。私企業だと彼らの経営面に悪影響がでるからだ。

話を戻すが例えば学術会議という統治機構は日本学術会議法に「科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする。」と明記されており、学術会議はこの活動目的に基づき評価されなければならない。

もちろん別の目的、例えば「学問の自由の保障」の目的から学術会議を評価することも許されるが法に明記された活動目的に触れない評価はあり得ない。

昨年の学術会議騒動で朝日新聞などのマスコミが同会議の活動目的に触れず「任命手続き」のみを強調して政府を批判できたのも監視の語感を悪用した結果である。

単なる「演説」を「質問」と言い張る記者が出てくるのも同じである。監視は悪用されやすい言葉であり、マスコミの役割を監視とすることは害のほうが大きい。

また、監視はとても知性的な振る舞いとは言えずマスコミの知的権威を損なうだけだろう。マスコミの知的権威の低下を防止すためにもその役割を監視ではなく評価とすべきである。要するにマスコミにも利益がある。

国民と評価基準の共有を

法は「国民の代表者」によって制定されるものだから法に明記された活動目的に基づいて権力を評価するということは国民とマスコミが評価基準を共有することを意味する。

評価基準が共有されれば報道番組で思いつきの議事進行を行う司会者、アナウンサーも淘汰され政策論争も活発化するだろう。政策論争が活発化すれば若者の政治への関心も高まるに違いない。政治・政策の評価基準が共有されれば世代の差なんて大した話ではない。

我々国民はマスコミに対してその役割の抜本的変更を迫るときにきているといえよう。