今こそ憲法改正をやるべきだ

改憲勢力の伸張

日本維新の会躍進も相まって、現国会ではいわゆる憲法改正に積極的な改憲勢力が衆院の3分の2を確保した。一方、参院の方では護憲、改憲は拮抗しており、憲法改正が現実味を帯びるのは来年の参院選以降になりそうである。

日本国憲法の署名 Wikipediaより

しかし、憲法改正の機運が高まっていることは事実であり、その現状を踏まえたうえで筆者の意見を述べたい。

 日本国憲法は押し付けられたものか?

自民党は結党以来、日本国憲法の改正を党是としてきた。その理由は、現状の憲法がアメリカに押し付けられたものであるという認識に立ち、日本の国柄にそぐわないと考えているからである。

その不満を象徴するかのような記述が初期の自民党綱領にはある。

占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。

現行の憲法は広義の意味で占領軍に強制されたものであると言われても仕方ない。占領下の日本政府はGHQからの憲法案の提示がある前に独自の案を提出はしていた。しかし、その原案が明治憲法と大差がなく、これでは日本を軍国主義に向かわせた根本原因が払しょくできないとしたGHQは1週間で自前の案を用意し、日本政府に提案した。

当時の日本政府は占領下といっても、ドイツと違って占領軍による直接統治はされず、間接統治が認められていた。それはポツダム宣言で無条件降伏の対象が日本政府ではなく、日本軍を対象にしていたことから明らかである。それゆえ、理論上はGHQからの提案を拒否することもできなくはなかった。しかし、敗戦国として従順な態度を見せること以外の現実的な選択肢が無かったこともあり、結局はGHQ案を飲み、それが国会に提出され、明治憲法のプロセスの下で日本国憲法が誕生した。

だが、日本国憲法が押し付けられたものであっても、施行されてから一切の改定作業を経なかったことから、事実上国民から承認された文書であるとも言える。

しかし、いくら現行の憲法が国民的合意を経ているように見えたものであっても、それが一般市民によって書かれたものではなく、一部の人間によって書かれたものであることに残念さも覚える。そして、その無念は明治憲法にも感じるものがある。

一部の人間に書かれた日本の憲法

日本国憲法と明治憲法に共通するものはそれは一部の人たちによって書かれているという点である。明治憲法は伊藤博文を含めた若干名が人里を離れて練りに練った草案が基になっている。その後、帝国議会で草案についての議論がなさた。

草案で使用されていた言葉が修正されたりもしたが、その議論に参加した議員たちは投票資格の関係から当時の人口の数パーセントからしか選ばれておらず、全員が男性であった。明治憲法は一部の人々によって書かれ、一国民が憲法の策定プロセスには参画することはできなかったのである。ましてや、当時の全国民の審判を受けたものでもない。

さらに、日本国憲法も同様に一部のGHQ官僚たちによって書かれた。例えば有名な芦田修正に代表されるように若干のワードチョイスに変更はあったものの、GHQの原案に近いものが国会を通過し、国民にそのまま受け入れられた。

近代に入ってから日本はふたつの憲法を手にしているが、それが国民的な議論を経たものではなく、当時の権威から押し付けられたものであるということはいかがなものだろうか。

日本国民で共同作業を行う意義

上記の問題意識がある故に、筆者は憲法改正を国民全体を巻き込む形で実施する意義があると考える。そして、それは様々な副次的な効果を生み出すと考える。ひとつは、国民の政治参加を促すことである。日本は先進国の中では最も投票率が低い国である。

さらには、国民自身が政治に与える影響を過小評価している国である。そして、そのようなマインドセットが国中に充満するに至った要因は、政治と自分たちに距離があると考える国民が多いからであろう。

しかし、もし実際に国民投票を実施し、国民の一票で社会の姿が大きく変わる瞬間を目にすれば、自分が無力であるという意識は変わるであろう。さらに多くの国民の意見が政治に反映されるという好循環が生まれ、健全な民主主義の発達に寄与するであろう。

筆者は政治不信や政治への期待感の薄れが顕著な時代であるからこそ、憲法改正という国民全体での共同作業をすることに意味があると思う。そうすることによって初めて国民全体が納得感を日本国憲法が出来上がるのではないだろうか。