就職活動という宝の社会的持ち腐れ

ここ最近、複数の大学生から就職活動の相談を受けた。何れも偏差値上位校の学生であるが、奇妙なことに、口を揃えて「友人には相談したくない」「就職活動のことは友達に言いたくない」と頑なであった。

理由を聞けば、社会人でもない友人からは的確なアドバイスを得られる可能性が低いことに加え、見栄やプライドから内定獲得などの良い結果が出てから報告したいこと、さらにはライバルにもなり得る友人への配慮などが挙げられた。

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勿論、就職活動に報連相の義務はない。学園祭のような集団行事ではなく、自分の将来を決める個人行事なのだから、個人の都合で活動したところでお咎めはない。

しかし、友人の価値はその程度のものなのだろうか。家族さえ知らない一面を見せ合うのが友ならば、自分自身の強み・弱みなど忌憚なく指摘してくれる有力なブレーンとなるはずである。

何より、仲の良い友人でも選ぶ進路は千差万別なのだから、キャリアに関する異質な価値観との衝突は、自らの価値観を点検し吟味し熟成できる絶好の機会である。たとえ結果的に同じキャリアを歩むにしても、煩悶した分だけ納得感は桁違だろう。多様な価値観は意外にも身近に在る。

ただし、学生側にも言い分がある。毎年のように変わる採用活動スケジュールに振り回されながら、企業から課されるエントリーシートや適性試験など膨大なタスクをこなすだけでも精一杯であろう。学業やアルバイトもやり繰りせねばならない。悠長に価値観をぶつけ合う暇などなく、正攻法に手を出したくなる気持ちもよく分かる。

答案能力が問われ、傾向と対策が講じやすい大学受験と違って、生き方そのものが問われる就職活動には正解がない。そのため、公助は当てにできず、共助は使い物にならない。そう考えるとすれば、当然、自助努力に頼るしかない。自ら横の繋がりを断った結果、友人と切磋琢磨することなく孤独な孤軍奮闘で何とかやり繰りする。

では、そうして社会に出た卒業生たちがご機嫌に働いているかというと、入社後3年以内の離職者は昭和62年から一貫して約3割に及ぶ。これは、果たして個人だけの問題なのか。自己責任だと片付けて済む問題なのだろうか。

就職活動という人間的成熟をもたらしてくれる折角の社会的行事は、今や重苦しい個人的行事に終始しており、学び合いや支え合いどころか、蹴落とし合いのサバイバル・ゲームと化している。自由競争社会だから致し方ないと言えばそれまでだが、その競争と引き換えに、一体どんな果実を私たちは手にできているだろうか。

保護者や教師が手塩にかけて育てた子どもたちが、他者に興味を持つどころか、むき出しの利己心を携え蹴落とし合いのゲームに翻弄されている成れの果てを、私たちはそろそろ見直さねばならないだろう。