歴史修正主義批判を批判する

歴史修正主義が日本社会を歪めているという批判がある。しかし、どうだろうか。

歴史は新史料の発見、史料の再解釈によって常に修正されるものである。歴史を修正することは別におかしいことではない。歴史修正主義と聞けば大抵の人をこう考えるのではないだろうか。歴史修正主義は世論に対し訴求力のある言葉ではない。訴求力なき言葉にどうしてこだわるのだろうか。何か意図があるのだろうか。

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ともあれ、歴史修正主義への批判とは史実に対する嘘への批判のようである。

よく取り上げられるのは「慰安婦の強制性の有無」「南京事件の被害者数」についてである。

歴史に嘘あってはならない。史実の改ざんは強い非難に値することである。なるほど、それはその通りである。だからといってそれが社会を歪めているかどうかは別問題である。

我々は子どもの頃から「嘘は駄目だ」と注意される。一方で「嘘も方便」という言葉もかなり早くから覚える。嘘はコミュニケーション手段として消極的ながら許容される。

考えてみれば日常には嘘は溢れている。「あの俳優は演技が上手い」「あのアイドルは歌が上手い」「あのタレントは性格が良い」「野党共闘は成功である」等々…。

嘘は日常に溢れているだけではない。実に簡単につくれる。嘘というのは真実をほんのわずか改ざんすれば良い。「この情報は99%真実である」とは言う者はおまい。

どんな情報もほんのわずか事実と違えればそれは嘘の情報になる。

この嘘の性質を考えれば嘘にいちいち反応することは無駄である。消耗するだけだろう。嘘とは適当につきあい、時折「嘘も方便」であると割り切ったほうが良い。それでも看過できない嘘がある。それは具体的な被害・危険を発生させる嘘である。

例えば「福島産の食べ物は放射能まみれで危険である」といった嘘は福島県の生産者の生活に打撃を与える。こういう嘘は批判されるべきだろう。

しかし、慰安婦に関する嘘、南京事件に関する嘘は一体どんな被害・危険を発生させるのだろうか。もちろん慰安婦は生きている。しかし、彼女達は韓国にいる。我々日本人が「慰安婦は強制連行の結果ではない」といったところで一体何が起きるのだろうか。南京事件も「南京事件の犠牲者数は多過ぎないか」といって何が起きるのだろうか。自衛隊が何かするのだろうか。そんなことあるまい。それとも日本の極右団体が中国・韓国の国内で何かするのだろうか。入国拒否されるだけだろう。

誤解を恐れずに言えば具体的な被害・危険を発生させない嘘は倫理・道徳の問題に過ぎない。慰安婦・南京事件に関する幾つか言説を「歴史修正主義」と認定したところでそれが具体的な被害・危険を発生させなければ大した問題ではない。少なくとも長く議論すべきものではない。歴史修正主義は倫理・道徳の問題に過ぎないから政策論争になじむものではない。

政策論争の場で「慰安婦の強制性の有無」「南京事件の犠牲者数」を論ずることは「あのタレントは性格が良いか」を論ずるのと変わらない。

政策とは国民の福利を増大させるためにあるはずだ。ところが日本は1980年代から「あのタレントは性格が良いか」次元の言説が歴史修正主義批判の名の下に正当化、政策論争の場で幅を利かせ日中・日韓関係が壊滅的なものになってしまった。言うまでもなくその最大の責任は朝日新聞にある。

そして現在、日本の歴史修正主義批判はSNSの結集作用に支えられ左派の間で強い支持を得ている。左派は単に歴史修正主義を批判するだけではない。ヨーロッパの動向も意識している。

世論への訴求力のない歴史修正主義なる言葉に左派が固執するのはヨーロッパが歴史修正主義に対して規制措置を講じているからと考えるのは邪推ではない。

言うまでなく歴史修正主義批判においてもっとも警戒しなくてはならないのは規制措置である。歴史修正主義批判は言論・表現の自由も射程に収めている。

「嘘は許されない」「嘘を放置すると大変なことになる」といった主張はもっともらしい。

しかし「嘘を否定すると創作もできなくなる」といった思考も必要であり、むしろこうした思考の先にこそ自由がある。

だから歴史修正主義批判など相手する必要ない。時間の無駄である。今の日本にそんな余裕はない。歴史修正主義批判には徹底的無視で対応すべきだろう。