今年最後のブログです。1年の学びを言葉にしてみます。
まず人間は必ず死にます。どれだけの医療技術を尽くしても、本人がどれだけ生きたいと願っても、その時が訪れれば必ず死にます。これは人間が『生きる権利』を主張し続けるのは不可能であることを意味します。またかつては人間も地球レベルの食物連鎖の中にいました。猛獣の食料になっていた時期がありました。
それを考えると生命体にはサドンデス(突然死)が付き物です。これは「生」とは自分の意思でコントロール出来るものではなく、意思よりも上位概念に位置するものである気がしてなりません。よって意思でコントロール出来ない「生」に対して『死ぬ権利』を議論すること自体がナンセンスで、知的生命体である人間の驕りではと思わずにいられません。
では延命治療はどうなんだ?社会福祉はどうなんだ?と当然なりますよね。それは「生」をコントロールしているじゃないかと指摘されると思います。私はこの部分にこそ人間の知的さが発揮されるのだと思います。元々人間は弱い生命体でした。
だから群れをなすことで互いを守って来ました。優生思想などは人間が地球の生態系の頂点にいるという錯覚が生み出した妄想以外の何者でもありません。人間は常に絶滅の危機に瀕しています。一人でも多くの人間を救うために手を尽くすのは生命体として極めて自然な行為だと思います。
唯一「生」をコントロール出来るのが自殺と殺人です。これは如何なることなのかまだ考察が追いつかないです。意思によって「生」を終わらせる、うーん。
けれども一つ言えるのは、自殺→死ぬ権利→→安楽死、というような連想ゲームは絶対に違います。人間は知的な故に生命体の本能に反した行動を行えるようになってしまいました。生きる意味とか、現代社会の一つの価値観に過ぎない生産性に縛られるようになりました。
けれども忘れてはいけないのは「生」自体の尊厳です。これは人間の意思でどうこう議論出来る性質のものではありません。
この記事は、株式会社まんまる笑店代表取締役社長、恩田聖敬氏(岐阜フットボールクラブ元社長)のブログ「ALSと共に生きる恩田聖敬のブログ」2021年12月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。